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2011年10月10日

仲田幸子横浜公演「光の詩」

仲田幸子横浜公演「光の詩」


仲田幸子横浜公演「光の詩」


仲田幸子横浜公演「光の詩」


仲田幸子横浜公演「光の詩」


仲田幸子横浜公演「光の詩」


9月25日、横浜市教育会館で、仲田幸子さんの映画と芝居を見ました。
実はその1週間前の9月19日、那覇市民会館で行われるはずだったでいご座の「敬老の日特別公演」に行く予定だったのですが、台風15号のために中止になってしまいました。大ショックで、横浜でリベンジというわけです。
9月17日に那覇で封切られた出馬康成監督の映画「オバアは喜劇の女王」はもちろん桜坂劇場で鑑賞済です。

横浜アリーナでやった方が良かったのではと思うくらい、会場は超満員。昼の部が始まる頃には、整理券を求める夜の部の行列ができ始めるほどでした。沖縄では知らない者がいない最強のオバアですが、本土でこれほどの人が集まるとは正直思いませんでした。

小生は、幸子さん率いるでいご座の芝居を見るのは初めてでした。
演目は映画の中でもワンカット紹介されていた「たてまつる」でした。オジイに扮した幸子さんが、次々とやってくる借金取りをトンチンカンな問答で、次々と撃破し結局お金を払いません。そして最後は、奥さんが死んだことにして、逆に借金取り全員から香典をせしめるという話です。
舞台裏の左に三線、右に太鼓が配されており、動きに合わせて鳴る様や、動きそのものに、小生は京劇の影響を感じ取りました。

それより何よりウチナー口がさっぱり分かりません。英語を聞くより分かりません。
隣のシマには、浅草沖縄県人会の人たちが座っており、ドッカンドッカンと笑いの渦が巻き起こっていましたが、小生は会場の何割かの人同様、取り残されたような気持ちを持ちながらも、65年間に渡って人々を笑わせ続けてきた幸子さんのペーソスと迫力に満ちた演技を味わっておりました。

一方、映画は日本語で作られられているので、問題ありません。御年76歳の仲田幸子さんの半生(残りを考えるとほぼ一生)が語られる感動のドキュメンタリー映画です。小生にとっては、今年一番の感動作でした。

那覇・旭橋の下でカニを採って、お米に替えた極貧の幼少時代。撃沈された対馬丸にあと30mのところで乗りそこね、沖縄本島への砲撃の嵐の中、なんとか生き延びて、終戦後石川の収容所に入れられました。日本兵は鬼で米兵は優しかったとの回顧もありました。
生きるために「炊事でも洗濯でも何でもします。」と言って、石川の収容所に慰問に来た劇団に12歳で飛び込み、そこで出会ったのが、15歳で結婚することになる劇団の脚本家 兼 演出家の仲田龍太郎氏でした。
それからは、絶望のどん底にあった戦後の復興に始まり、65年間に渡り龍太郎と二人三脚で、人々を笑わせ、泣かせ、勇気づけて来たのです。

映画の中で、出馬監督は何人かにインタビューを行い、仲田幸子さんについて語らせています。
版画家の嘉睦稔氏は「悲しみを背負ったおかしさ」と言い、演出家の宮本亜門氏は「心の痛みがあるから、根源的な強さがある。」と言い、沖縄県芸大の与那覇教授は「人間の本音で演技ができる人」と言いました。
いずれのコメントも、回りの人が次々と死に、あたり一面焼け野原になった戦争を経験しているがゆえに、「虚飾にとらわれない人間の本質をついた演技をできる。」と言っているように聴こえました。
小生も、20世紀の大哲学者ハイデッガーの「絶望を知っている人間こそがユーモアを解することができる。」という言葉を思い出しました。


この映画を2回見て、小生は出馬監督の本当の意図を見抜きました。この映画を撮り終えた時点で、仲田幸子さんが主人公の映画ではなくなっていたのだという隠された意図をです。

映画の真ん中あたりで、13年間でいご座を撮り続けた女性写真家の石川真生さんは語りました。
「女系家族の中で、あるいは、みんなが『幸子さん、幸子さん』と集まる中で、龍太郎さんは疎外感を感じ、お酒に溺れて行ったのだと思います。」

最後近くの場面で、半分ボケて寝たきりとなった龍太郎氏を映し出しながら、監督自らが長々とナレーションを語っていきます。
「ボケた振りをしながらも、龍太郎氏自身が、今なお仲田幸子の最大のファンであるのだ。」
夫であり、でいご座の脚本家、演出家であった龍太郎氏こそが、沖縄最強のオバア、仲田幸子を作り上げたのだと。

彼自身焼け野原から立ち上がり、でいご座で一世を風靡しながら、みんなの注目は妻の幸子さんや娘、孫に注がれる。自分は酒に溺れ、最後は寝たきりになる。のしかかる孤独と不安。
出馬監督は、幸子さんのドキュメンタリーを撮り始めたものの、その過程で徐々に龍太郎氏へのシンパシーを強めて行ったのではないかと思います。

今年1月6日、仲田龍太郎氏が逝去する場面で映画が終わり、映画の中で語り部を務めてきた孫の仲田まさえさんが歌う「光の詩」がエンドロールにかぶさります。まさえさんの憂いを含んだ優しい声。
まさに弔いの曲。

「思い出の扉を閉じて
今僕らの歴史は止まる

面影はあの雲に乗せて
今は目を閉じましょう

幾千の言葉のかけら
打ち寄せる白い波のように散る

いつか僕らは 光の彼方に
ゆっくりとゆっくりと包まれてゆく

あふれる思いをこぼさぬように
大切に大切に抱きしめましょう

いつか僕らが 愛した証は
だんだんとだんだんと海へと変わる」


2003年リリースの曲ですが、まるでこの映画のラストのために作られたかのようです。
いやいや。出馬監督は、龍太郎氏の死後、この曲を映画の最後に使いたいがために、逆にまさえさんを語り部にしたのではないでしょうか。
龍太郎氏が愛する幸子さんのために、一世一代のもの凄いプロデュースをしたように、出馬康成監督のもの凄いプロデュースを感じ取りました。


「オバアは喜劇の女王」は、「真の主人公」仲田龍太郎氏への出馬監督のオマージュであると同時に、もう一回転して、「表の主人公」幸子さんへの仲田龍太郎氏のオマージュとなっている二重構造の恐るべき作品だと思いました。

感動の余韻の中、仲田まさえさんの「光の詩」をYoutubeで数十回繰り返し聴きながら、横浜の街を歩いて帰った小生なのでした。

仲田幸子横浜公演「光の詩」


仲田幸子横浜公演「光の詩」


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Posted by 猫太郎 at 13:34│Comments(0)映画、演劇
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