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2011年01月19日

「銀の滴 降る降る まわりに~首里1945」

昨年12月、池袋の東京芸術劇場で文学座の演劇を見ました。【写真1、2】
しかし、内容について消化不良であったため、鑑賞レポを書きそびれていました。先週東京八重洲のビルの一室にある「アイヌ文化交流センター」【写真3~5】を訪れ、小生の理解が足りなかった部分を補うことができたので、1ヶ月遅れで鑑賞レポを書きます。

「銀の滴 降る降る まわりに ~首里1945」というタイトルのこの劇は、沖縄戦の前年からの首里を舞台にして、共に二等国民として蔑まされたアイヌと沖縄の兵士の交流を軸に話が展開します。

公式HPから紹介文を転記します。この劇のコンセプトやストーリーの流れはこの文章でだいたい分かると思いますので、小生からはこれ以上の内容紹介はしません。

『1944年、沖縄は首里で、出会うはずのない者たちが出会った。
そして1945年。
軍属として炊事兵となった、銃を持たない人間たちの沖縄戦。
アイヌ、沖縄、そして日本の兵士がそれぞれに偏見を抱え、いがみ合い、喧嘩しながら食料を調達し、調理が始まる。

足りない食糧、激しくなる米軍の攻撃。
いつまでもいがみ合っていては生き残れない。
嫌でも手を組むしかないのだ。
ぎこちなく差し出された手と手が、やがて…

戦後、沖縄の激戦地跡に建てられた一基の慰霊塔。
「南北之塔」と名付けられたその塔の側面には
アイヌ語で 「キムンウタリ(山の同胞)」 と刻まれました。

アイヌと沖縄。
それぞれが歴史の流れに翻弄され、差別されてきました。
そんな日本の最北と最南の民が、
戦争という極限状況の中で図らずも出会います。

沖縄は戦場となり、アイヌは「日本軍」の一員として
戦場に送り込まれたのです。

「銀の滴 降る降る まわりに」
知里幸恵氏編訳による「アイヌ神謡集」の中に、
「梟の神の自ら歌った謡」として
「銀の滴 降る降る まわりに 金の滴 降る降る まわりに」
と出てくる。』

小生は沖縄で戦跡巡りをしているのですが、真栄平にある「南北之塔」のことは知りませんでした。不勉強を恥じるばかりです。
沖縄戦で亡くなったアイヌの兵士も慰霊するこの「南北之塔」の存在から一点突破で脚本を書き上げた執念は立派です。しかし、沖縄戦の悲惨さが全く伝わって来ません。むしろ能天気な雰囲気すら漂っています。おいおい、20万人の無念の死を今の時代に伝えるのが、表現者の使命でしょうが。
小生がっかりすると同時にかなり憤慨しながら、劇を鑑賞したのでした。


小生の昨年のベストCDは、アイヌの楽器トンコリ奏者OKIの「サハリン・ロック」でした。【写真6】先日歌詞カードを眺めながら、この名盤を聴いていました。歌詞にはアイヌの神々が何回か出てきます。すると、突然あの演劇がフラッシュバックしたのです。

しまった! 小生としたことが不覚でした。
小生の趣味である日本史探求の専門分野の一つはアイヌと関係の深い蝦夷の歴史です。また、小生は若い時に、札幌に住んでいたことがあり、ほとんど観光地化したアイヌの村々を訪れたことがありました。
小生は、文化座の演劇をあまりに沖縄寄りの視点だけで鑑賞していました。タイトルには、「首里1945(年)」の前に、堂々とアイヌの歌謡が掲げられているではありませんか。

そういえば、劇中でドキッとした台詞がありました。アイヌ兵が沖縄兵に言います。
「お前らは、自分達の言葉(ウチナーグチ)で喋れていいな。俺達はアイヌの言葉で話すことを禁じられた。」
南では、ウチナーグチで話すゆえに、スパイ容疑で殺されたり、集団自決に追い込まれた歴史もあるわけですが、北では、長年の歴史を持つ言語や風習や文化が禁じられ、住んでいた土地も奪われた歴史があるのです。
この劇は、二者択一で言えば、沖縄の戦争が主題ではなく、ヤマト民族による(特に)アイヌ民族の差別や抑圧が主題であると、ようやく気がついたのです。


劇中で何回か朗読される「銀の滴 降る降る まわりに」が収録されている知里(チリ)幸恵さんの「アイヌ神謡集」を、八重洲のアイヌ交流センターに出向き、読んでみました。
1903年(明治36年)生まれの幸恵さんは、本名チリパというアイヌです。19才でこの本を書き上げ、力尽きたのか、その晩に心臓病で亡くなりました。
代々口承で伝わるアイヌの神々の話をローマ字表記のアイヌ語で書き記し、日本語訳をつけました。そこには、フクロウや狐やウサギに姿を変えた神々が、自然と共存して生きる人間を見つめる姿が描かれています。
何より素晴らしいのは、彼女自身の手による序文です。少々長いですが、感動的な文章なので、全文転記します。

『アイヌ神謡集
知里幸惠編訳
             序 

その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる篝(かがり)も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,円(まど)かな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.
 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて,野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ.僅かに残る私たち同族は,進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり.しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて,不安に充ち不平に燃え,鈍りくらんで行手も見わかず,よその御慈悲にすがらねばならぬ,あさましい姿,おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名,なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.
 その昔,幸福な私たちの先祖は,自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは,露ほども想像し得なかったのでありましょう.
 時は絶えず流れる,世は限りなく進展してゆく.激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも,いつかは,二人三人でも強いものが出て来たら,進みゆく世と歩をならべる日も,やがては来ましょう.それはほんとうに私たちの切なる望み,明暮(あけくれ)祈っている事で御座います.
 けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語,言い古し,残し伝えた多くの美しい言葉,それらのものもみんな果敢なく,亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか.おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います.
 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は,雨の宵,雪の夜,暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました.
 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば,私は,私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び,無上の幸福に存じます.
 大正十一年三月一日』

自然破壊を嘆き、弱肉強食の競争原理を嘆き、ヤマト民族によるアイヌ民族の弾圧を嘆き、その上で、人間社会とか何か、幸福とは何かという問いかけを我々に突きつける哲学的、社会的な名文です。
100年前の少女が書いた悲痛な叫びを持つ文章を、今我々は涙なくしては読めません。

核心部分を抜粋してみましょう。
「美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等(=昔の人)は,(中略)なんという幸福な人だちであったでしょう.」
「夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて」
「太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて,野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ.僅かに残る私たち同族は,進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり.」

日本中、世界中が、資本の論理の下、公共投資の大義名分の下、このような変化を余儀なくされています。ホタルやトンボが死滅してしまった地域も多く、人々も殺伐として、日本全国絶望的な状況と言ってもいいでしょう。
しかし、100年前の少女の切実な嘆きが一番当てはまるのは、あたかも劇中でアイヌ兵が沖縄兵に投げかけるがごとく、今は沖縄ではないかと、小生思うのです。
沖縄の有名な建築家であり自然保護活動家である真喜志好一さんの文章を「沖縄環境ネットワーク通信第7号」より抜粋転記します。

『(前略)セメント工場はフル稼動時に生産効率が上がるように設計されている。だから工場はフル稼動を続ける。それを消費するために、内需拡大のかけ声のもとで建設予算は減ることもなく編成されてきた。必要もない工事が続くという悪い循環が社会構造化している。市街地から郊外へと、川も海岸もコンクリートで固められていく。
(中略)
 いま、日米両政府が沖縄北部、名護市辺野古の清澄な海に計画している長さ1500m、幅600mもの巨大な海上ヘリ基地。政府の建設に向けた企みは、「建設反対」が多数意見になった市民投票でくいとめている。これとて埋立案やら陸上案とか沖縄の土建業や政治家を「セメントの経済学」で誘惑する案も見え隠れしている。

 沖縄。1972年以来、基地被害の代償として、特別の「沖縄振興開発費」が計上され、島々に投下されている。セメントの消費地を求めて原生林にブルが入り、ほんの4Kmの河川にも治山ダムまで造り始めた。いのちの巡りを断ち切るだけの事業の数々。これらも「セメントの経済学」。

 山、川そして海岸、あらゆるところにコンクリート。海にはテトラポット。海岸では重力式の護岸を作り終えると、さらにセメントの消費を求めて、重力式護岸の前面に階段状の親水式と称する護岸が作られる。かつての防風林、砂浜から海というやわらかい境界線で何ら不都合はなかったのに、恩納村南恩納でも親水式護岸が作られ始めている。

 1990年の国民一人あたりセメント消費量のグラフがある。国別に見ると日本は4位だが、沖縄県だけをとると世界一である。なんとアメリカの3倍の993Kg。個人住宅が二代目のコンクリート住宅に代わっており、消費量が高いのは理解できる。しかし、護岸、砂防ダムなど無駄な公共工事が消費量を上げ、生態系を壊しているのも疑いようがない。 』


最後に、再度幸恵さんの言葉。
「一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて,不安に充ち不平に燃え,鈍りくらんで行手も見わかず,よその御慈悲にすがらねばならぬ,あさましい姿,おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名,なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.」

「銀の滴 降る降る まわりに~首里1945」


「銀の滴 降る降る まわりに~首里1945」


「銀の滴 降る降る まわりに~首里1945」


「銀の滴 降る降る まわりに~首里1945」


「銀の滴 降る降る まわりに~首里1945」


「銀の滴 降る降る まわりに~首里1945」



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Posted by 猫太郎 at 01:33│Comments(2)映画、演劇
この記事へのコメント
南北之塔の件はアイヌ人あんまり関係ないよ。
真栄平区民が立てたもので、区民と交流があったアイヌ人の人が塔を立てる際に一部寄付しただけだよ。
あと慰霊塔の意味を本当に知っているのなら、あれがアイヌ人だけに立てられたものじゃないってわかるはずだよ。
自分も最近まで知らなかったけど、慰霊塔ひとつがアイヌ人の物になっていたなんて、びっくりしたよ。
Posted by レイ at 2011年04月20日 19:41
>レイさん

このような場末のブログに書き込みありがとうございます。

実はこの舞台を見てから2度「南北の塔」に行ってきました。2度目はつい先週土曜のことです。
このタイミングでコメントをいただいたことを奇遇に思っております。

この件を巡ってある種の対立があるのを疑問に思い、アイヌ側の主張を含めて、勉強してまいりました。
先週、塔建立前より関わってこられた真栄平の大城藤六先生のお話を直接伺う機会を得て、ようやく事態の経緯を知ることができました。

レイさんのおっしゃるように、寄付の部分を除いては、塔は正に真栄平区民の慰霊碑としての性格を持ったものであり、一部のマスコミやライターの著作に事実の誤認があることが分かりました。

訂正するべきところは訂正し、謝るべきところは謝って、最終的にはみんなが仲良くやっていく方策がないものかと純粋に思っております。

小生も引き続き勉強して行きますので、本件に関してまたの機会にお話させていただければ、幸甚です。
Posted by 猫太郎 at 2011年04月20日 23:58
 
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