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2013年02月27日

尖閣でトニーそばを

尖閣でトニーそばを


3年ぶりに石垣に行って来た。
今回の旅では、バイタリティあふれる中年や熟年の人たちと出会い、話す機会がいつも以上に多かった。

世界中の海に潜った上で、八重山の海が一番綺麗だと毎月10万円のノーマルチケットで石垣を訪れるダイバー。
同じく八重山の景色に魅せられ、毎月来るうちについには石垣北部に移住してしまったカメラマン。
僧侶、自衛官、タレント、DJと華麗な遍歴を持ち、リタイアしてからユニークなカレー屋を営む大将。
台湾から石垣に移住して15年、島の台湾人ネットワークの中で巧みに商売をする台湾料理屋の女将さん。
石垣で最初にうなぎ屋を立ち上げ、苦節40年で島で随一の料亭に育てた女将さん。

最後に挙げたうなぎ屋の女将さんは、「尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑」を見に行った時に、料亭の敷地を通らなければいけなかったためうろうろしていると先方より声をかけられ、事情を説明すると、
「普通の観光客とは違ったところに行かれるのですね。」
とわざわざ少し離れた碑まで案内してくれた人だ。
それをきっかけに、ご自身周辺の戦時中や戦後のことをポツリポツリと話された。女将さんの上品な顔立ちと語り口は、事業を成功させ、幸せな生活を送って来られたと思わせるのに十分なのだが、それでも心の中に戦時中からの重いものを引きずっておられるのではと小生は感じた。
戦後大手商社が石垣島で立ち上げようとしたうなぎ養殖事業を絡めて、この人のことを書いてみたいと思ったが、多分にプライバシーに踏み込むことになるので断念した。

尖閣でトニーそばを


女将さん以外に今回の旅で最も印象に残ったご老人は、すでに相当な有名人である「トニーそば 栄福食堂」のおっちゃんである。本名通事国浩さん。通称「おっちゃん」である。
このおっちゃん、全国ネットのTVに出演すること数回、ブルータスや女性誌にもしばしば登場し、全国に名前が知られるているどころか、英語圏で最大の発行部数を誇る旅行ガイド「Lonely Planet」に毎年登場しているために、世界的に有名なのだ。

この食堂の名物はずばり3つ。
全うなところから言えば、八重山のヤギ汁、ヤギそば。
2番目は、早逝した往年の人気俳優「赤木圭一郎」、愛称「トニー」のポスターが壁全面に貼られた異様な店の雰囲気。
そして、3番目はおっちゃん自身のパワフルで強烈なキャラクターである。

おっちゃんは、10代の頃から20年以上、南洋マグロ漁船に乗って、世界の海を股にかけ、アフリカ・南欧・南米など世界中の国々を渡り歩いてきた経歴を持っている。赤木圭一郎=トニーの写真の間に、おっちゃんが若かりし頃のマグロ漁船を操舵する凛々しい姿の写真があった。
トニーの出世作に「霧笛が俺を呼んでいる」(1960)という映画があって、そこでトニーは世界を股にかける船員を演じている。当時船員であったおっちゃんは、そこに自分の姿を投影したのではなかろうか。それ以来、トニーのファンなのである。そして、トニーそばなのだ。

尖閣でトニーそばを


17時頃お店に入った。3年ぶり3度目の訪問。
「ごめん下さい。こんにちはー。」と数度叫んで、ようやくおっちゃん登場。頭に鉢巻を巻いて変わらず元気そうな姿である。こっちは覚えているが、向こうは毎日何人ものお客さんを相手にしているため、覚えていない。
「猫太郎です。」と挨拶をし、ヤギ系メニューを回避して、無難に八重山そばとミミガーとビールを注文して、しばし世間話。前回からの新しい話として、アイドルグループのV6が取材に来たという。その番組のビデオを見せてもらった。

トニーのポスターが何百枚と貼ってある店内を見渡すと、店の隅に隠すように置いてある看板が目に留まった。
「尖閣は誰のもの?」と書いてある。
尖閣諸島は、日本の住所で言えば石垣市登野城2930番地であり、住所の上では、ここ「大川」の隣町である。
小生はちょうど「尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑」にお参りをしてきたところでもあったので、思わずおっちゃんに尋ねた。
「尖閣諸島を守る活動をされているのですか。」
「昔はあの島に石垣から漁師がたくさん行ったんよ。今はもう行けんけど、漁師のためにも尖閣を守らねば。」
照れ笑いを浮かべておっちゃんは続けた。
「看板の漢字を間違えたから隠してあったのに、猫太郎さん良く見つけたね。」

尖閣でトニーそばを

尖閣諸島、竹島、北方四島等の日本近海の領土問題に関しては、歴史的にいろんな経緯・解釈があり、各国の主張が対立しているわけであるが、終戦直後、今後日本が周辺諸国と仲良くしないようにアメリカが意図的に国境線を曖昧にしたという策略=陰謀が、今日狙い通りに機能しているのである。だからこそ、米軍の沖縄居座りも、オスプレイ配備も、辺野古の新基地建設も、もっともらしく大義名分を与えられている。

一方、おっちゃんの言い分は、先人達があの島々と関わってきた石垣島民として、政治とは無縁の部分で純粋で素直な意見である。おっちゃんは船員にして漁師だったのだ。
小生はその看板に興味を引かれ、テレビや雑誌などメディア好きのおっちゃんに新しい媒体の提案をしてみた。

「この食堂の宣伝を兼ねて、その看板とおっちゃんの姿をYouTubeにアップしたいですが、どうですか。小生のチャンネルは15万ヒットあって、世界中の人が見ています。」
YouTubeと聞いておっちゃんの目が輝いたのに気がつき、小生は続けた。
「沖縄を中心とした音楽系の動画チャンネルなので、八重山民謡を歌っていただくのが一番いいです。」
2番目の提案には、おっちゃんは首を横に振った。
「ワシは唄は歌わんのや。でも、民謡でも昭和歌謡でも何でも歌うギター弾きがいるから、すぐ呼ぶわ。」
思わぬ展開に小生恐縮しながも同意した。
「ありがとうございます。でもギャラは払えませんよ。」
「いいわ、いいわ。ビールドンドン注文してくれたら。」


しばらくして仕事着のまま来られたのは、近くで音響会社を営む仲松辰夫さんだった。パンチパーマが似合う渋い中年である。
お話を伺うと、何十年前か前の学生時代に東京で「流し」をされていたようで、いわばセミプロである。さっそくご挨拶代わりに、石原裕次郎の「夜霧の慕情」(1966)を歌っていただいた。
力強いギターのピッキングに哀愁のフレーズ。フレットの上を器用に指が動いていく。歌声は太くて優しく、ムーディ。
おお、なかなかいいじゃないか。
昭和の場末の酒場の雰囲気だ。石垣でこの雰囲気が味わえるとは。
「おっちゃん、ビールとミミガー、注文!」
「はいよ!」

尖閣でトニーそばを

「いらよい月夜浜」や「やいま」など八重山ゆかりの唄をリクエストしてみたが、昭和歌謡のツボの魅力にはかなわない。ここはトニー=1960年代の店なのだ。八重山の唄を放棄して、ど真ん中の曲をリクエストしてみた。
赤木圭一郎=トニーの「霧笛が俺を呼んでいる」(1960)。

お店の一番目立つ棚の上に、映画「霧笛が俺を呼んでいる」の大きなポスターが飾ってある。50年の時を経てトニーがギロリとこちらを睨み付けている。仲松さんが、丸く太い声で、甘くしかし迫力満点に歌う。

「船の灯りに背中を向けて
 沖を見つめ淋しいかもめ
 海で育った船乗りならば
 海へ帰れとせかせるように
 霧笛が俺を呼んでいる」

そう歌う仲松さんの背後で、おっちゃんが尖閣の看板を裏返すと、そこには、
「旅に出て 今日は東 明日は西 望郷の念 心おわらず」
と、おっちゃんの自作の句が書かれていた。

小生の頭の中で、船乗りを演ずる映画のトニーと、実際に船乗りだったおっちゃんの海にさすらう心象風景がシンクロする。そこに、尖閣諸島に出入りしていた石垣の漁師たちの心象も重なった。
陸に生まれ故郷があっても、海や島を自由に行き来するのが船乗りの使命。海が第二の故郷。その海に、尖閣の海に、漁師が行けなくなったとおっちゃんは嘆く。政治がそれを邪魔する現実。
動画を撮影するデジカメをズームして、おっちゃんの顔を捕らえた。浅黒くて苦悩のシワが深く刻まれた船乗りの顔だ。

仲松さんは、数十年前の昭和の唄を連発した。外は雨。今日はお客さんは来ない。雨音となぜか風鈴の音。
「トニーそば 栄福食堂」はますますディープな空間と化していった。

そして、数曲後にハプニングが起こった。おっちゃんが自らリクエストをして、歌うと言い出したのだ。
曲は、1959~1965年にかけて、何人かの歌手によって歌われた「アリューシャン小唄」である。久美悦子やこまどり姉妹が歌ったバージョンと、三沢あけみが紅白歌合戦でも歌ったバージョンでは少し歌詞が異なる。おっちゃんが歌ったのは前者の歌詞だったが、同じ情景でもより生々しい後者の歌詞(詞:宮川哲夫)を転記する。

 「明日は逢えなくなる人に
  せめて笑顔でつぐお酒
  もしも女でなかったら
  ついていきたやアリューシャン

  一人淋しくニシン場に
  咲いたあたしは流れ花
  待てとあなたに言われても
  待っていますと言えぬ恋

  無理な願いと知りながら
  行かせたくないアリューシャン
  せめてご無事で帰る日を
  今は心に祈るだけ

  霧ににじんだシコタンの
  赤い灯が泣く 泣きあかす
  あれは亡き母 亡き父の
  今も静かに眠る島」
  
「猫太郎さん、知ってるか。これは漁師の唄なんよ。」
そうか。おっちゃんは、若い時にこういう体験をしてきたんだと小生は気がついた。
唄は千島列島の北東、アリューシャン海域のニシン漁が舞台だが、一方おっちゃんは南洋のマグロ漁だ。一度漁に出たら数ヶ月陸には帰れないのは同じである。
港に着いて、酒場の女性と恋に落ちることもあろう。しかし、酒場の女性にしても、「待てとあなたに言われても、待っていますと言えぬ恋」なのである。一生の契りを交わしても男が数ヶ月先にここに戻ってくる保障は何もない。

おっちゃんは、ケープタウンやリオデジャネイロの港で、現地の女性と歌詞と同じような会話を交わしたはずだ。それは今も独身であるおっちゃんの心の中にある半世紀前の甘酸っぱい思い出なのだ。その思い出こそ、店のアイデンティティである「霧笛が俺を呼んでいる」すら歌わなかったおっちゃん自身のアイデンティティそのものなのだ。

アリューシャン小唄でさらに印象的なのが「シコタンに父母が眠る墓がある」という4番の歌詞である。
シコタンとは言わずと知れた北方領土の色丹島。根室半島の東に歯舞島があり、そのまた東にある島である。
霧ににじんだシコタンが見えるということは、よほど近い場所からシコタンを眺めていることになる。霧があったら遠くは見えまい。したがって、それは西隣の歯舞島から色丹島を臨んでいるいるということを意味する。
父母の墓がある=父母が住んでいた色丹島と、歯舞島の場末の酒場での出口のない恋。それらの小さな島々には、いくつかの生活や人生が息づいていたと連想される。

ひるがって、南の尖閣諸島でも同じような情景が繰り返されたに違いない。戦時中に遭難死した人たちのお墓も実際にある。
もうひとつ掘り下げて、さらに先の時代には、尖閣には中国人や台湾人による生活や人生、それに伴う思い出があったであろうことは想像に難くない。

おっちゃんの看板に書かれた「尖閣は誰のものか?」という文言はある意味素晴らしい。日本のものとも中国のものとも台湾のものとも主張していない。
生きるために、生活をするために、島々とその海域を自然に行き来していた人達がいた。言葉が違うから小競り合いはあったであろうが、国境の概念がない頃には、お互いがなんとなく共存していたはずだ。しかも、少なくとも2千年間は。
「尖閣は誰のものか?」という看板の問いに、2千年間はその海域に生きている人達のものだったと答えたい。

日本であろうが中国であろうがアメリカであろうが、国家権力が大きな利権を目的に、国民に欺瞞を振りまき不当な介在するからややこしいのだ。
海域の底に眠るレアメタルをどうするのかって?
そんなものは開発を凍結したらいい。欲にまみれた右肩上がりの経済成長は、もうとっくに地球環境が耐えられるレベルを超えている。我々は地球一個分の身の丈にあった生活をしなければならないのだ。
心配御無用。
歯舞島の酒場の恋だって、自分が当事者であれば、十分にエキサイティングに感じるはずだ。人の喜怒哀楽の質は、あるいは、幸せの大きさは、突き詰めれば資源やエネルギーの消費量とは無関係なのである。


「アリューシャン小唄」をトツトツと歌うおっちゃん。うまくはないが味があってなかなかいい。胸に去来するのは50年前の恋のことであろうか。70年間の人生の重みを感じる。
長い拍手の後、小生はおっちゃんに訊いてみた。
「おっちゃんみたいに、世界中を見て回ると、言葉や文化が違っても人は本質的にはみんな同じとわかって、国境なんてナンセンスになってくるんじゃないですか。だから、尖閣問題も過剰に騒ぎすぎとか。」
おっちゃんは、少し間をおいて一言だけ答えた。
「でも、中国が大国になってきたからね。」

大国になったからどうなのか、その続きの言葉を小生はあえて聞かなかった。
石垣は14世紀まで独立した自治を持っていたが、1500年に琉球王府によってオヤケアカハチが滅ぼされ、その琉球王国も1609年薩摩に侵攻されてからは、中国と薩摩の二重支配を受けた。そのあおりで、石垣を始め先島諸島には人頭税が課せられ、人々は激しく搾取された。その薩摩は江戸幕府に支配され、その反動で薩長が中心になり、明治維新が起こった。明治政府になってからも、苦難は続く。琉球処分で先島諸島は清国に割譲されかけた。つまり、ここ石垣もあやうく中国領土になりかけたのだ。戦後はもちろんアメリカの統治下に入った。

石垣は数世紀の間、大国の権力に翻弄されて来た。
歴史を縦にではなく、世界を横に見てきたおっちゃんだからこそ、大国になりつつある中国や、その反動で日本やアメリカの国家権力によって、またこの小島が翻弄されるかも知れないことを本能的に感じ取っているのだ。

一方で、この島には唐人墓がある。
1852年中国からアメリカに向かう苦力(奴隷)貿易船ロバート・バウン号の中で苦力達の暴動が起き、石垣島の崎枝沖合いで船は座礁した。この騒動のため、石垣島は米英軍の砲撃を受けるなどしたが、琉球王府はアメリカと粘り強く交渉し、地元の人々達も逃走した苦力達に食料や水を与えるなどして、生き残った人たちの中国への帰還に努力した。
唐人墓のすぐ横には、沖縄復帰に尽力した初代沖縄県知事 屋良朝苗の自筆の記念碑がある。(当時は復帰前で行政主席)その前段にはこうある。

 「人間が人間を差別し憎悪と殺戮をくりかえさない
  人類社会の平和を希い(後略)」

尖閣でトニーそばを

この事件をきっかけに、中国では苦力貿易の反対運動が起こったという。石垣の先人達のおかげで、中国からアメリカへの奴隷貿易が阻止されたのだ。そういえば、おっちゃんは、南アのケープタウンで最も悲惨な頃のアパルトヘイト(黒人差別)の現場を何度も見てきたという。

そういうことなのだ。
差別や憎悪は、暴力や殺戮を生むだけで、事態の解決につながらない。尖閣だって同じである。声高に「中国けしからん」と叫んでも、向こうはもっと大きな声で(=10倍の人口)で「日本はけしからん」と叫ぶだけである。
そのうち暴力や殺戮につながり、喜ぶのは国家を裏で操る巨大企業であり、泣くのは一般国民なのである。そういう図式は歴史が何度も経験している。
ロバート・バウン号事件のような行動をお互い積み重ねていけば、苦力貿易廃止につながったように、社会や人の考えは変化し、柔らかに妥協点が見えてくるはずである。


17時に「トニーそば 栄福食堂」に入って、途中少し抜けたものの、気がつけば23時半を過ぎていた。
おっちゃんの強烈なキャラクターと仲松さんの素敵な歌に酔いしれ、尖閣や北方領土に思いを巡らせ、あっという間に時が経ってしまった。すごく楽しい石垣の一夜だった。

通事さん(=おっちゃん)、仲松さんありがとう。また行きます。
















当日の動画はYouTubeにアップしましたが、今のところ15ヒットしかない。(→検索「トニーそばライブ」)
お店の宣伝につながりそうになくて、すみません!




【おまけ】おそらく尖閣海域に向かうと思われる海上保安庁の巡視船
尖閣でトニーそばを

尖閣でトニーそばを



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