2010年11月14日
蒼井優の白い背中に映った琉球国の運命
ご無沙汰しております。
ますますの激務に加え、左腕の腱鞘炎でPCのキーボード叩けず、おまけにかなり頑丈な防衛網を張っている自宅PCが悪質なウイルス(AntiVirus Studioというウイルス対策ソフトを装ったウイルス)にやられて、復旧に時間がかかったため、ブログを休んでおりました。
ご心配かけました。(心配メールを1通だけいただきました。)
激務は続いており、ドラマーなのにドラムが叩けない腱鞘炎も完治してませんが、ブログはボチボチ再開します。
毎晩遅くてライブが全く見れない中、ライブハウスの開演よりは遅く始まる映画のレイトショーを見に池袋に行きました。蒼井優ちゃん主演の「雷桜」です。
映画は良く見る小生ですが、これは小生が見に行きたいと思う種類の映画ではありません。では、なにゆえ見に行ったのか?
山の場面のロケ地が今帰仁だったからではありません。ロケ地については、予備知識を持っておらず、いきなりやんばるの山並みが映って面食らいましたが。
実は、9月に静岡の「清見寺」を訪れた時に、お寺の中にこの映画のポスターが貼ってあったのです。【写真1】ポスターにはこのお寺の書院と庭ががロケに使われたと書いてあり、実際、映画の中で何十回もこのお寺の中の場面が出てきました。【写真2】
一方、清見寺には、この地で亡くなった具志頭王子(琉球国7代尚寧王の弟)のお墓があります。【写真3】今年は具志頭王子の400周忌にあたるということで、今夏いくつかのイベントが行われ、参加した与那覇歩さんのブログでこの悲劇の王子のことを知りました。
具志頭王子の話をする前に、まずは映画「雷桜」の説明をします。
(ブログ復帰第一弾で今日も長くなりそうな予感。腱鞘炎大丈夫か?!)
徳川11代将軍家斉の17男である斉道(岡田将生)は、亡き母のトラウマから心の病に侵され、静養のため山のお屋敷(清見寺がロケ地)にこもります。ある日鷹狩の鷹を追いかけて、一人で山奥に入って行き、20年前に誘拐され山で暮らす娘(蒼井優)に出会います。そして、天狗と噂されていた素性の知れない娘と若殿は、一目惚れで恋に落ちるのですが、当然のように周囲に反対され、時代劇版「ロミオとジュリエット」と相成るのでした。
単純な話なので、これだけ書けばおそらく十分でしょう。
凡庸とすら言えない陳腐な映画です。脚本も映像も全く面白くありませんでした。
物語の中心になるべき巨木「雷桜」の存在が意味不明だったり、野原が車のワダチだらけだったり、蝉が鳴くのにあたりは枯れ木の冬景色だったり、桜の場面のすぐ後がススキだったり、CGがほとんど漫画みたいだったりと、もはやギャグ映画の世界です。
ただ一点、特筆すべき場面がありました。
蒼井優ちゃんが服を脱がされ、白い背中があらわになり、上半分だけ映る豊満な(脇を締めているので実際の大きさは不明)オッパイがぷるんと震え、「あっ」と小さく声を出すシーンです。小生、自分の歳も忘れて、大いに興奮してしまいました。今なお蒼井優ちゃんの艶かしい白い背中が網膜に焼きついており、もし機会があれば優ちゃんの背中をなめてみたいとの思いに駆られています。(機会なんかないってか?!)
反権力派の小生にとっては、11代将軍徳川家斉の治世期も大変興味深い時代です。
話は少しだけ逸れますが、家斉はオットセイの精力剤を常用していたためオットセイ将軍と呼ばれ、一説には40人の側室、妾がおり、特定されるだけで53人の子供がいました。小生も赤ひげ薬局の「オットピンS」というオットセイの精力剤を試したことがあります。名前がすこぶる秀逸ですね。オットセイの駄洒落の上に「夫がピンとしてSex」という意味を掛けてあります。素晴らしいセンス! で、肝心の効き目ですが、小生の歳ですと、相手が蒼井優級でないとダメでした。
家斉の子供の養育費や黒船対策の海防費の増大などもあり幕府財政は破綻し、側近政治による幕政の腐敗や綱紀の乱れなどが横行し、地方では次第に幕府に対する不満が高まって行きました。1837年、ついに大坂で「大塩平八郎の乱」が起こり、それに呼応するように「生田万の乱」をはじめとする反乱が相次いで、幕藩体制の崩壊が始まっていきます。
時代のうねりとして実にエキサイティングですね。現代の我々も是非見習いたいものです。
しかるに、「雷桜」は、このような時代背景をほとんど無視して、視野狭窄で陳腐なストーリーを展開しました。小生が脚本家なら、オットセイ将軍の息子たる若殿を通して、腐敗した権力の構造や苦しむ農民の姿を織り込んで、沖縄問題にも通じる権力と庶民の関係を普遍的な形で浮き彫りにして、「ロミオとジュリエット」の持つ身分の悲劇を絶望的な迫力で描いてみせるのにと残念に思った次第です。
次に具志頭王子の話をします。
具志頭王子は、1609年薩摩が琉球国を侵攻した際に、兄である尚寧王の摂政として、薩摩との和議にあたりました。実質は降伏であり、具志頭王子にとっては、断腸の思いであったと思います。
翌年、島津藩初代大名 島津家久(旧名忠恒)に引き連れられて、兄王と江戸に向かいました。江戸幕府(2代将軍徳川秀忠)と薩摩藩による琉球国支配のあり方を話し合うのが目的だったと思われます。
しかし、具志頭王子は静岡の駿府に引退していた徳川家康に接見した2週間後に、当地で急死してしまいます。家康は、その死を哀れみ葬礼を行わせ、駿府近くの「清見寺」に彼を葬りました。
なんか臭いませんか?怪しすぎます。
小生が調べた限り、具志頭王子が殺されたとの見方はないようですが、この時代の急死はまず暗殺を疑うべきです。
家康が今後の兄尚寧王に恐怖を植えつけるために殺した可能性もないわけではありませんが、家康の指示で葬礼が行われたことや、家康のゆかりの清見寺に葬られたことを考えると、可能性は低いと思われます。
清見寺は、家康が幼少の頃今川の人質として住んでいた思い出の場所です。しかも、具志頭王子のお墓は、家康が心を込めて石木を配したと言う名庭【写真4】を見下ろす位置に建っています。さらには、お寺の鬼瓦のデザインは、徳川の葵の御紋の下に尚家の左巴が隣接しいています。【写真5】
状況証拠からは、徳川家康が具志頭王子(あるいは琉球国)を敵視するどころか、一度会っただけなのに、強い親しみさえいだいていたように思われて仕方がありません。
具志頭王子のあまりに唐突な死を暗殺とすると、暗殺者として最も怪しいのは、彼らを江戸に連れて行こうとした島津家久その人に以外にありえません。家久は家老伊集院忠棟や伊集院忠真を自らの手で殺したのを始め、義父の家老平田増宗を暗殺するなど、殺された人間は数知れず、短気で酷薄な性格であったと言われています。もちろん、琉球国侵略も直接的には彼の指示によるものです。
おそらく、家康と具志頭王子の接見で、琉球国の処遇に関して家久が気に入らないような会話が交わされたのではないでしょうか。それを聞いた島津家久が、江戸へ発つ前に具志頭王子を殺してしまったという仮説は成り立たないでしょうか?
時代は少しだけ遡ります。
天正3年(1573年)のある日、駿府近くで鷹狩りに出かけた家康は、山にいた少年の美しさに本気で惚れこんでしまい、自分の小姓として取り立て、衆道(ゲイ)相手として深く寵愛したという逸話があります。その少年こそ、後の徳川四天王となる井伊直政なのでした。足利義満と世阿弥の関係について以前の記事で書きましたが、当時の武士階級では衆道(ゲイ)は武士の嗜みともいわれるほど一般的であり、主従関係とも深くつながっていました。織田信長‐前田利家・森蘭丸、上杉景勝‐清野長範、伊達政宗‐片倉重長・只野勝吉などの例が良く知られています。
鷹狩に行って山でバッタリ会って、一目惚れって、「雷桜」と同じシチュエーションですね。しかも、時を越えて、「清見寺」が共通のキーワード。偶然にしては出来すぎで、恐ろしいくらいです。
それでは、雷桜の凡庸な脚本家に代わって、ここ清見寺周辺を舞台に、小生が脚本を書いてみましょう。
具志頭王子と接見した徳川家康は、彼の異国情緒漂う精悍な姿に一目惚れし、一夜を共にします。そして、具志頭王子の耳元で囁きます。「琉球国を外様の島津の思うようにはさせない。将軍の秀忠に進言しておく。」
そのことを漏れ聞いた島津家久は激怒し、即座に具志頭王子を殺し、二代将軍秀忠に対し琉球国を薩摩の付庸国化することを申し出る代わりに、琉球国交易品の貢納を約束したのでした。かくして、薩摩支配が確定し、琉球国の苦難の日々が始まることになりました。
一線を退いていた家康は、嘆き悲しみ、自分が最も苦労した時代に過ごした清見寺に彼を弔い、自慢の庭園と彼方に琉球があるはずの海を臨む高台に具志頭王子のお墓を建てました。屋根瓦には、葵の御紋の下に直接左巴を置き、薩摩を通さず(=薩摩と横並びで)幕府が琉球の面倒を見たかったとの思いを込めたのでした。





ますますの激務に加え、左腕の腱鞘炎でPCのキーボード叩けず、おまけにかなり頑丈な防衛網を張っている自宅PCが悪質なウイルス(AntiVirus Studioというウイルス対策ソフトを装ったウイルス)にやられて、復旧に時間がかかったため、ブログを休んでおりました。
ご心配かけました。(心配メールを1通だけいただきました。)
激務は続いており、ドラマーなのにドラムが叩けない腱鞘炎も完治してませんが、ブログはボチボチ再開します。
毎晩遅くてライブが全く見れない中、ライブハウスの開演よりは遅く始まる映画のレイトショーを見に池袋に行きました。蒼井優ちゃん主演の「雷桜」です。
映画は良く見る小生ですが、これは小生が見に行きたいと思う種類の映画ではありません。では、なにゆえ見に行ったのか?
山の場面のロケ地が今帰仁だったからではありません。ロケ地については、予備知識を持っておらず、いきなりやんばるの山並みが映って面食らいましたが。
実は、9月に静岡の「清見寺」を訪れた時に、お寺の中にこの映画のポスターが貼ってあったのです。【写真1】ポスターにはこのお寺の書院と庭ががロケに使われたと書いてあり、実際、映画の中で何十回もこのお寺の中の場面が出てきました。【写真2】
一方、清見寺には、この地で亡くなった具志頭王子(琉球国7代尚寧王の弟)のお墓があります。【写真3】今年は具志頭王子の400周忌にあたるということで、今夏いくつかのイベントが行われ、参加した与那覇歩さんのブログでこの悲劇の王子のことを知りました。
具志頭王子の話をする前に、まずは映画「雷桜」の説明をします。
(ブログ復帰第一弾で今日も長くなりそうな予感。腱鞘炎大丈夫か?!)
徳川11代将軍家斉の17男である斉道(岡田将生)は、亡き母のトラウマから心の病に侵され、静養のため山のお屋敷(清見寺がロケ地)にこもります。ある日鷹狩の鷹を追いかけて、一人で山奥に入って行き、20年前に誘拐され山で暮らす娘(蒼井優)に出会います。そして、天狗と噂されていた素性の知れない娘と若殿は、一目惚れで恋に落ちるのですが、当然のように周囲に反対され、時代劇版「ロミオとジュリエット」と相成るのでした。
単純な話なので、これだけ書けばおそらく十分でしょう。
凡庸とすら言えない陳腐な映画です。脚本も映像も全く面白くありませんでした。
物語の中心になるべき巨木「雷桜」の存在が意味不明だったり、野原が車のワダチだらけだったり、蝉が鳴くのにあたりは枯れ木の冬景色だったり、桜の場面のすぐ後がススキだったり、CGがほとんど漫画みたいだったりと、もはやギャグ映画の世界です。
ただ一点、特筆すべき場面がありました。
蒼井優ちゃんが服を脱がされ、白い背中があらわになり、上半分だけ映る豊満な(脇を締めているので実際の大きさは不明)オッパイがぷるんと震え、「あっ」と小さく声を出すシーンです。小生、自分の歳も忘れて、大いに興奮してしまいました。今なお蒼井優ちゃんの艶かしい白い背中が網膜に焼きついており、もし機会があれば優ちゃんの背中をなめてみたいとの思いに駆られています。(機会なんかないってか?!)
反権力派の小生にとっては、11代将軍徳川家斉の治世期も大変興味深い時代です。
話は少しだけ逸れますが、家斉はオットセイの精力剤を常用していたためオットセイ将軍と呼ばれ、一説には40人の側室、妾がおり、特定されるだけで53人の子供がいました。小生も赤ひげ薬局の「オットピンS」というオットセイの精力剤を試したことがあります。名前がすこぶる秀逸ですね。オットセイの駄洒落の上に「夫がピンとしてSex」という意味を掛けてあります。素晴らしいセンス! で、肝心の効き目ですが、小生の歳ですと、相手が蒼井優級でないとダメでした。
家斉の子供の養育費や黒船対策の海防費の増大などもあり幕府財政は破綻し、側近政治による幕政の腐敗や綱紀の乱れなどが横行し、地方では次第に幕府に対する不満が高まって行きました。1837年、ついに大坂で「大塩平八郎の乱」が起こり、それに呼応するように「生田万の乱」をはじめとする反乱が相次いで、幕藩体制の崩壊が始まっていきます。
時代のうねりとして実にエキサイティングですね。現代の我々も是非見習いたいものです。
しかるに、「雷桜」は、このような時代背景をほとんど無視して、視野狭窄で陳腐なストーリーを展開しました。小生が脚本家なら、オットセイ将軍の息子たる若殿を通して、腐敗した権力の構造や苦しむ農民の姿を織り込んで、沖縄問題にも通じる権力と庶民の関係を普遍的な形で浮き彫りにして、「ロミオとジュリエット」の持つ身分の悲劇を絶望的な迫力で描いてみせるのにと残念に思った次第です。
次に具志頭王子の話をします。
具志頭王子は、1609年薩摩が琉球国を侵攻した際に、兄である尚寧王の摂政として、薩摩との和議にあたりました。実質は降伏であり、具志頭王子にとっては、断腸の思いであったと思います。
翌年、島津藩初代大名 島津家久(旧名忠恒)に引き連れられて、兄王と江戸に向かいました。江戸幕府(2代将軍徳川秀忠)と薩摩藩による琉球国支配のあり方を話し合うのが目的だったと思われます。
しかし、具志頭王子は静岡の駿府に引退していた徳川家康に接見した2週間後に、当地で急死してしまいます。家康は、その死を哀れみ葬礼を行わせ、駿府近くの「清見寺」に彼を葬りました。
なんか臭いませんか?怪しすぎます。
小生が調べた限り、具志頭王子が殺されたとの見方はないようですが、この時代の急死はまず暗殺を疑うべきです。
家康が今後の兄尚寧王に恐怖を植えつけるために殺した可能性もないわけではありませんが、家康の指示で葬礼が行われたことや、家康のゆかりの清見寺に葬られたことを考えると、可能性は低いと思われます。
清見寺は、家康が幼少の頃今川の人質として住んでいた思い出の場所です。しかも、具志頭王子のお墓は、家康が心を込めて石木を配したと言う名庭【写真4】を見下ろす位置に建っています。さらには、お寺の鬼瓦のデザインは、徳川の葵の御紋の下に尚家の左巴が隣接しいています。【写真5】
状況証拠からは、徳川家康が具志頭王子(あるいは琉球国)を敵視するどころか、一度会っただけなのに、強い親しみさえいだいていたように思われて仕方がありません。
具志頭王子のあまりに唐突な死を暗殺とすると、暗殺者として最も怪しいのは、彼らを江戸に連れて行こうとした島津家久その人に以外にありえません。家久は家老伊集院忠棟や伊集院忠真を自らの手で殺したのを始め、義父の家老平田増宗を暗殺するなど、殺された人間は数知れず、短気で酷薄な性格であったと言われています。もちろん、琉球国侵略も直接的には彼の指示によるものです。
おそらく、家康と具志頭王子の接見で、琉球国の処遇に関して家久が気に入らないような会話が交わされたのではないでしょうか。それを聞いた島津家久が、江戸へ発つ前に具志頭王子を殺してしまったという仮説は成り立たないでしょうか?
時代は少しだけ遡ります。
天正3年(1573年)のある日、駿府近くで鷹狩りに出かけた家康は、山にいた少年の美しさに本気で惚れこんでしまい、自分の小姓として取り立て、衆道(ゲイ)相手として深く寵愛したという逸話があります。その少年こそ、後の徳川四天王となる井伊直政なのでした。足利義満と世阿弥の関係について以前の記事で書きましたが、当時の武士階級では衆道(ゲイ)は武士の嗜みともいわれるほど一般的であり、主従関係とも深くつながっていました。織田信長‐前田利家・森蘭丸、上杉景勝‐清野長範、伊達政宗‐片倉重長・只野勝吉などの例が良く知られています。
鷹狩に行って山でバッタリ会って、一目惚れって、「雷桜」と同じシチュエーションですね。しかも、時を越えて、「清見寺」が共通のキーワード。偶然にしては出来すぎで、恐ろしいくらいです。
それでは、雷桜の凡庸な脚本家に代わって、ここ清見寺周辺を舞台に、小生が脚本を書いてみましょう。
具志頭王子と接見した徳川家康は、彼の異国情緒漂う精悍な姿に一目惚れし、一夜を共にします。そして、具志頭王子の耳元で囁きます。「琉球国を外様の島津の思うようにはさせない。将軍の秀忠に進言しておく。」
そのことを漏れ聞いた島津家久は激怒し、即座に具志頭王子を殺し、二代将軍秀忠に対し琉球国を薩摩の付庸国化することを申し出る代わりに、琉球国交易品の貢納を約束したのでした。かくして、薩摩支配が確定し、琉球国の苦難の日々が始まることになりました。
一線を退いていた家康は、嘆き悲しみ、自分が最も苦労した時代に過ごした清見寺に彼を弔い、自慢の庭園と彼方に琉球があるはずの海を臨む高台に具志頭王子のお墓を建てました。屋根瓦には、葵の御紋の下に直接左巴を置き、薩摩を通さず(=薩摩と横並びで)幕府が琉球の面倒を見たかったとの思いを込めたのでした。
Posted by 猫太郎 at 14:20│Comments(0)
│映画、演劇