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2011年06月06日

東北被災地訪問「幻のランの花を探して」

池袋の近くに小生の行きつけの沖縄居酒屋があります。ここ3~4年、毎週のように通っています。
開店以来40年以上大きな改装もなく、辺りの飲み屋と比べるとポツンと時代に取り残されたような木造のお店です。昭和10年生まれ、今年76歳のオバアがほとんど一人で切り盛りしていて、昨今は寄る年波に勝てず、夜9時を過ぎると家の片付けを終えた近くに住む娘さんが手伝いに来ます。

小生は毎回決まって「瑞穂」の水割りを飲み、オバアと他愛のない話をしながら、酒精の中に一日の疲れを溶かし込んでいるのでした。オバアとは長い付き合いなので、これと言って新しい話題はありません。そもそも、沖縄居酒屋なのに、オバアは沖縄出身ではないのです。亡くなられた旦那が沖縄出身で、「金城」姓を名乗っているものの、オバア自身は東北の宮古出身なのです。(念のため宮古島ではありません。ややこしい。)

オバアとの会話の中で、これまでで最も印象深かった話があります。小生の脳裏に、東北のその「風景」が焼きついています。オバアが4歳か5歳の頃、つまり70年以上前の話ですが、まずはこの話から始めましょう。

オバアのお父さんが何頭かの牛を飼っていました。春から秋にかけては、山の草原で牛を放し飼いにします。山へ行くには半日歩かなければなりませんが、物心のついた子供のオバア(これまたややこしい!)は、お父さんと一緒に山に行きたいとダダをこねました。「行きも帰りも自分で歩くなら」という条件で、オバアはついて行けることになりました。

山道を歩いていくと、熊の親子が小川で水を飲んでいました。オバアは怖がりましたが、お父さんが「大丈夫、こちらが何もしなければ、襲って来ないから。熊も分かっている。」と言うと、確かに熊はこちらを一瞥しただけで、襲いも逃げもしませんでした。「ここは自分達熊の縄張り、でも襲うと、村から猟師がやってきて、親子共々殺されてしまう。自分達に危害を加えるわけではない牛の集団を無視した方がいい。」と熊も思ったのでしょうか。ある意味、熊と人間の共生が成立していたのです。

オバアは半日間歩き続けました。牛の歩みが遅いので、なんとかついて行けました。目的地の山の草原に着くと、そこには、遠くの高山の残雪をバックに、あたり一面野生のラン(蘭)が咲いていました。この世のものとも思えない美しさに、子供心にも感動したと言います。
その話を聞いて、小生の頭の中にも、一面ランの風景が広がりました。しかし、ランと言っても、2万種以上あり、花の形や色はさまざまです。小生は、頭のイメージを修正すべく、オバアに尋ねました。
「コチョウラン?シンビジウム?カトレアとか、どういうランよ?」
「名前は分かんない。薄紫色で、花びらが細くて反っていて、大きな雌しべは下を向いている。それが何万本も咲いてた。」

それ以来、いつか宮古に行って、その光景を探したいと思っていました。仙台、盛岡は時々仕事で行っており、一度青春18切符で、宮古まで行こうとしましたが、途中で寄った遠野がまた面白く、時間切れで宮古までは行けませんでした。
宮古まで行っても、ランの山の詳しい場所は分からず、70年の間に開発の手が入ってその山はもうないかも知れず、また残っていても開花時期はピンポイントなため、その光景に出会える確率は0と言ってもいいでしょう。でも、現地に足を運べば何がしかの発見があるはず。空振りも多いですが、それが、小生の信条であります。柱になる探求テーマが一つあると、旅行に格別の面白みが出ます。

先週末、東北での仕事のチャンスを得ました。仙台でレンタカーを借りて、国道45号を北上して、宮古まで行くことにしました。
国道45号と言えば、仙台から宮古まで、塩釜、石巻、南三陸町、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石、山田町と、今回の大津波の被害を受けた街が連なっています。迂回区間はありますが、警察、自衛隊、ボランティアの昼夜を問わない懸命の復旧作業によって、今ではその大部分が通れるようになっていました。

今なお毎日テレビ、新聞が情報を流し続けている被災地の惨状について、小生がここで書けることなどありません。想像を絶する津波による破壊を目の当たりにして、むしろ、語れば語るほど、現実から乖離していくいう葛藤に陥るだけです。
絶句こそ雄弁。
写真数枚をアップするに留め、代わりにランの話を続けることにより、小生なりの発信をしたいと考えます。

東北被災地訪問「幻のランの花を探して」


東北被災地訪問「幻のランの花を探して」


東北被災地訪問「幻のランの花を探して」


東北被災地訪問「幻のランの花を探して」


東北被災地訪問「幻のランの花を探して」


東北被災地訪問「幻のランの花を探して」

戦場のような被災地をいくつも抜けて、オバアの故郷、宮古に着きました。真っ先に行ったのは、先日ライブレポ「浄土への鎮魂歌」を書かせてもらったチコ本田さんゆかりの地、浄土ヶ浜です。
三陸海岸屈指の景勝地は、土砂崩れやレストハウスの損傷のため、立ち入り禁止。小生、徒歩で浜まで降りて行きました。アスファルトの舗装や手すりが津波で流され、浜側は無残な姿をさらけ出していました。2階建てのレストハウスの損傷から察するに、ここにも10m以上の巨大津波が襲来したに違いありません。一方、浄土のような海側の景観は、おそらく以前と変わらず、ひっそりとたたずんでいました。

東北被災地訪問「幻のランの花を探して」

小生、浜を後にすると、直ぐ近くに「白木山」と書かれた山へ続く遊歩道を発見しました。オバアが牛を連れて歩いた山のはずはありませんが、登ってみることにしました。同じ三陸の山、ランの群生地の手がかりがあるかも知れません。
遊歩道が綺麗に整備され、道の脇の木々や草花に時々ネームプレートが設置されています。蝶が舞い、ウグイスの声が聴こえる静かな山です。小生の他には誰もいません。低い山の頂上付近まで登って来ると、雑草しか生えてないのに、地面に一枚のネームプレートが差してあるのに気がつきました。

そこには「カタクリ」と書いてありました。カタクリは、4月に種を落とすと直ぐに枯れてしまうので、今の季節は葉も茎もありません。
小生、稲妻に打たれるがごとく閃きました。
「70年前にオバアが見たのはカタクリの群生だ!」と。
小生も富山の山の中で見たことがあります。何千、何万もの紫色の花が地面を埋め尽くしていました。ランに似たその花は、オバアの記憶の中の色形と完全に一致します。小生は確信を持ちました。
小生の脳裏にあったやや曖昧だったランのイメージが、具体的な紫のカタクリの花に次々と置き換わって行きました。もちろんそこには、この風景に感動し、その後70年以上もこの風景と共に生きることになる若き日のオバアの姿もあります。70年の時を経て、衝撃的な風景を共有することになった小生にとっても、なんとも感動的な一瞬でした。

東北被災地訪問「幻のランの花を探して」

この山のカタクリもオバアの見た山のカタクリも、70年間ずっと同じ営みを繰り返しながら、毎年綺麗な花を咲かせて来たと思われます。しかし、そこに群生地があるということは、津波こそ来ないけれども、何十年、何百年もの間、厳しい風雪や、他の植物との激しい縄張り争いに打ち勝ち続けて来たということを意味しています。

そう言えば、先ほど浄土ヶ浜の案内板の上を、一匹の蟻が忙しそうに這っているのを見ました。その下には、小さな草が黙って花を咲かせていました。そこは、何時間にも渡り津波に飲み込まれていたはずの場所です。
蟻がどうやって生き延びたのか、小生は疑問に思いました。が、翻って考えると、仲間が死ぬ中、運良く津波を生き延びた小さな蟻や草さえも、前と変わらない姿で、懸命に命の花を咲かせているのです。人間だけが泣きごとを言っているわけにはいかないでしょう。

白木山の頂上から、宮古の街を見下ろすと、ここもまた津波による無残な姿をさらけ出していました。小生はオバアが震災の直後に言っていた言葉を思い出しました。
「私のお祖母さんは、2万人が死んだ1886年の明治三陸大津波に会ったんだよ。地震があったらすぐ山に逃げろっていう昔からの言い伝えを守ったから、なんとか助かったんだ。」
先ほどは70年前にオバアが見たカタクリの風景が、脳裏でシンクロした小生ですが、今度は「オバアのオバア」が115年間に見た風景が、不気味なシンクロをしました。

ああ、これは115年前の風景と同じだ。
とすると、人間とて歴史を繰り返しているだけじゃないか。
先ほど見た小さな蟻や花のように、遅かれ早かれ、ここの人たちも、何事もなかったかのように、命の営みを繰り返すであろう、と。

東北被災地訪問「幻のランの花を探して」


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Posted by 猫太郎 at 23:44│Comments(0)歴史
 
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