てぃーだブログ › ネコ灰だらけ › 歴史 › 佐渡で思う「万国津梁の鐘」(後編)

2010年10月19日

佐渡で思う「万国津梁の鐘」(後編)

後編をすぐ書かねばと思いながらも、毎日バタバタしていたため、いつものように数日が経過してしまいました。
後編を書くのは気が重いですね。まず第一に、本ネタに対する小生の集中力が切れています。日々新ネタも発生しています。そして何よりも、音楽ネタに比べてアクセス数が数分の1しかないのです。場末のブログゆえ、マイペースでと思っていたのですが、ライブレポとその他のネタでは皆さんの関心に歴然と差があり過ぎて、モチベーションが下がりまくりです。
以上のような背景から、後編はショートバージョンでお送りします。

前回書き忘れたので、ついでにお断りしておきますが、小生は歴史好きですが、歴史学者ではないため、歴史的事実のディーテイルに関して事実誤認もあるかと思います。あくまでつらつらと考えた小生の仮説として、プロットを掴んでいただけばと思います。
また、特に今回は特定の宗派について、非難する意図も攻撃する意図も全くございませんので、この点ご容赦いただければと思います。小生も仏教徒の端くれであり、該宗派の教義、活動については、深く敬意を払っております。
では、ようやく後編を。(出だしから、どこがショートバージョンやねん!)


義持が明との勘合貿易を中止したため、禅宗側は困ったと思われます。
幕府の通訳や外交書作成の仕事がなくなり、これまで巨額の資金を得てきた彼らの手による明との貿易も激減し、彼らの存在の根源たる「禅」の経典、経文も入手しにくくなりました。
1428年に義持が死ぬと、1428年から1441年まで足利義教が6代目将軍を務め、幕府の勘合貿易を復活させましたが、禅宗にとって都合の悪いことに、義教は禅宗が対立する天台宗の座主でした。

義教が赤松氏によって暗殺され、1949年に「無能の将軍、異能の将軍」と言われた足利義正が8代目将軍に就任しました。しかし、政治には全く関心を示さず、専ら文化活動に専念しました。3代目将軍が築いた金閣寺に代表される豪華絢爛な「北山文化」に対し、銀閣寺に代表される「詫び寂び」の「東山文化」を開花させ、これまた現在の日本人のアイデンティティに深く根ざすこととになりました。

このような政治の空白を狙って禅宗の反撃が始まりました。
この時期、将軍が機能しないため「側近政治」が行われたわけですが、伊勢貞親らと並んで幕府の政治を担ったのが、禅宗の最高権力者の一人「季瓊真蘂(きけいしんずい)」です。
しかし、この頃勘合貿易の主体はむしろ大内氏らの守護大名に握られていました。そこで、おそらく季瓊真蘂が目をつけたのが、明との関係が良好なもう一つの冊封国「琉球王国」だったのです。琉球王国を媒介にして、彼ら自身の交易を含め、数十年思うように行っていなかった宗門と明との関係を再構築しようとしたのではないでしょうか。

季瓊真蘂が幕府の中枢にいた時期、琉球王国は尚泰久が王位に就いていました(1453~1473年)。この時期に琉球に送り込まれたのが、季瓊真蘂とは「旧識」の仲であった京都の禅僧「芥隠承琥(かいいんじょうこ)」でした。
芥隠承琥は尚泰久王の信認を受け、広厳寺、天龍寺、普門寺(今の久茂地の地名の由来)の3寺を開山しました。1456に天龍寺、普門寺の鐘が鋳造されており、この2つの鐘に「開山承琥、これを証す」との署名がなされています。
尚泰久王の在位の間に同様の鐘がさらに23造られており、これらの表面に刻まれているほとんど同じ内容の銘文は、相国寺の僧「渓隠安潜(けいいんあんせい)」によって書かれました。相国寺は前編で出てきた義満が「日本国王」になるために建てたお寺と同じ名前ですが、京都の相国寺にあやかって名づけられた那覇の寺院と思われます。
渓隠安潜と芥隠承琥が同一人物だったという説もあります。渓隠安潜の名前が鐘以外のところであまり見当たらないのと、小生が思うに「渓(=谷)に隠れ、安らかに潜む。」と言う名前が何やら秘密を含んでいるような気がします。

渓隠安潜の署名のある鐘のうち、首里城に掲げられた一つが1458年作の「万国津梁の鐘」です。【写真2=署名部分】
あまりに有名ですが、銘文の始めの部分を転記します。

『琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鐘(あつ)め、大明を以って輔車となし、日域を以って唇歯となす。此の二つの中間に在りて湧出する蓬莱島なり。船楫を持って万国の津梁となし異産至宝は十方刹に充満せり。』

(大)明との関係は上顎と下顎との関係で、大がついていない日本との関係は唇と歯の関係で表されています。日本人が書いたにもかかわらず、明らかに明との関係が大きく扱われています。その他の「万国」に関しては船による貿易を行うと書かれているだけで、顎や唇のような密接な例えは提示されていません。明との交易を望みながら、義満の時代から数十年間思うに任せなかった禅宗の明に対する思いが滲み出てはいないでしょうか。

この有名な銘文はいつもここまでしか紹介されませんが、残りの4分の3で展開されるロジックは、「尚泰久王は、深く仏教(禅宗)に帰依して、琉球に寺院を建て鐘を造った。これにより仏の加護があり、王家も国も栄えるであろう。」というものです。
足利幕府による勘合貿易の中止や、将軍の天台宗への傾倒など、苦々しい過去を繰り返さないようにするための策略を含んだ文面ではないだろうかと勘ぐってしまします。しかも、意味を裏返して「仏の加護を裏切ったら、王家も国も滅びる」との呪縛さえ感じられます。

1460年尚泰久王の死後、即位したのは尚徳王です。尚徳王は1469年、重臣の金丸のクーデターによって倒され、ここに第一尚家による王統は滅亡しますが、この時裏でクーデターを後押ししたのが、芥隠承琥と言われています。金丸は首里王府で貿易長官を務めており、芥隠承琥と貿易を巡る利害が一致した可能性があります。
いずれにしても、新たに即位した金丸改め尚円王は、禅宗を手厚く扱い、首里城から見て鬼門である北東の地に大禅寺「円覚寺」を建立しました。【写真3=円覚寺跡と首里城】
ここには首里城での儀式や明との交易の窓口を担う禅僧が300人以上も集まり、琉球における禅宗の栄華を見ることになりました。


ネーネーズは、名曲「万国津梁の唄」(作詞:永井龍雲)の中でこう歌っています。
レコーディングした2代目より、今のメンバー【写真1】の歌の方が断然いいですね。彼女らのツボにはまった一曲だと思います。小生大好きです。

「過去から未来へ語り継ぐ 平和の願い」
「笑顔と笑顔の交流は 幸せ運ぶ」
「心と心に橋を架け 世界を繋ぐ」
『ああ万国の ああ万国の津梁の詩』

万国津梁の鐘を巡る15世紀の日本と琉球の歴史をレビューしてきました。
残念ながら、ネーネーズの歌にあるような「平和の願い」や「笑顔と笑顔の交流」にはほど遠い「利権」「陰謀」「策略」「暗殺」「クーデター」といった泥臭い世界が展開されてきたと言わざるを得ません。それが、平和の象徴と見なされている「万国津梁の鐘」の真の姿だったのです。


ああ、そうだ!!
タイトルにあるように、これは佐渡ヶ島のレポートでした。琉球から佐渡に戻らなければなりません。
佐渡のあちこちにある世阿弥の史跡と能舞台【写真4】を見ながら、小生は能の有名な演目「大成寺」を思い出していました。大成寺の鐘の中に入った蛇が、鐘から出てきて大暴れをする大スペクタクルです。
蛇はすなわち龍であり、龍はすなわち仏の瑞獣として禅宗の象徴です。京都の相国寺の本堂の天井にも10mもあるような龍が描かれていました。

「万国津梁の鐘」の中に入って暴れていたのも、象徴としての龍ではなかったのかと、佐渡で思った小生なのでした。

佐渡で思う「万国津梁の鐘」(後編)

佐渡で思う「万国津梁の鐘」(後編)

佐渡で思う「万国津梁の鐘」(後編)

佐渡で思う「万国津梁の鐘」(後編)



同じカテゴリー(歴史)の記事

Posted by 猫太郎 at 02:39│Comments(0)歴史
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。