2010年10月14日
佐渡で思う「万国津梁の鐘」(前編)
先週土曜からの三連休、沖縄へ行って、歩さんのどなんちまライブを見たかったのですが、初日に仕事が入りNG。軌道修正して、仕事先近くの越後高田の瞽女唄を聴きに行こうと計画したものの、これも時間があわずNG。思い立って、生まれて初めて佐渡ヶ島に行って来ました。【写真1】
沖縄本島に次ぐ日本で2番目に大きい島。No1、2の島とは言え、島が持っている雰囲気や歴史は大きく異なります。小生のこの島に対する最も強いイメージは「流罪の島」。鎌倉、室町時代に当時の幕府と対立した順徳天皇、日蓮上人、日野資朝、世阿弥らがこの島に流罪になりました。
小生、レンタカーを借りて、彼らのゆかりの場所を順番に回って行きました。
特に印象深かったのは、能(当時はまだ猿楽と言った)を娯楽から芸術の域まで高めた世阿弥です。世阿弥の配所【写真2】や島のいたるところにある能舞台を見ながら、15世紀の日本の歴史に思いを馳せました。あの偉大な世阿弥がここに流罪になった背景には何があったのか。
あれこれ考えるうちに、既に何回も行っているけれど、先月たまたまじっくり訪れた首里の円覚寺【写真3】や首里城の入り口にレプリカがある「万国津梁の鐘」【写真4】と、世阿弥の生きた時代の関連性に思いが至ったのでした。
世阿弥は、12歳の時に、室町幕府三代将軍「足利義満」の目に留まり、以後「寵童」として、性的な関係(ゲイですな)を含め義満に仕えることになりました。彼は幽玄美溢れる「夢幻能」を完成させ、日本初の芸能書「風姿花伝」を書き上げ、能の大家となります。
その頃の義満といえば、権力を欲しいままにしていました。そして、彼が欲した最後の権力が「皇位」=天皇の地位だったとの言われています。いわゆる皇位簒奪(さんだつ)です。
皇位簒奪の計画は周到に進められました。祭祀権や叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、将軍の権限としました。
1932年、西隣の室町殿と合わせて、御所を挟み撃ちするがごとく、その東隣(現在の位置関係は北隣だけど)に巨大禅宗寺院「相国寺」【写真5】を建設します。そして、太政大臣を辞任し、相国寺の僧として出家します。出家という大義名分を持って、天皇の臣下から離れたわけです。
1401年、義満は禅僧「祖阿」らを使節として明に派遣、明の国王「建文帝」は義満を「日本国王」に冊封しました。天皇の臣下なら「王」にはなれませんが、出家したフリーの身、晴れて日本国王になれたわけです。ここに、両国の国交が正式に樹立され、日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易が、1404年から始まりました。勘合貿易は幕府を始め、関係する全ての者に莫大な利益をもたらしました。
ちなみに、琉球において、中山王尚氏が三山を統一して、明の冊封を受けたのが1429年。「琉球王国」より20数年早く「日本王国」が誕生していたことになり、明との関係を軸にして言えば、琉球と日本、そして朝鮮は兄弟国(敵礼国と言う)だったと言えます。
さて、相国寺を開山し、義満を出家させ、明との関係を取り持つといった一連の動きに黒幕として暗躍したのが、禅宗の高僧「夢窓疎石」でした。夢窓疎石は、過去にも時の権力者に重用され、天龍寺船による元との貿易を促進して潤沢な資金を手に入れ、天龍寺を建立し、多くの優秀な門弟を育成し、日本では新興仏教であった禅宗を大きな宗門としました。
当時の禅寺は、明を主たる相手とする外国との通商交易において、通訳を務め、漢文の公用書を作成するなど、今で言う「外務省」的な役目を果たしていました。そうすることで、権力者の庇護が得られると共に、彼ら自身が貿易に関わり、さらに宗門を拡大するための膨大な資金を得ていたのです。
夢窓疎石らの目論見は成功し、五山・十刹制度の強固な体制が作られ、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合したその後の五山文化の興隆につながりました。神社仏閣の建築や庭など、現在日本の文化と言われるような具体的な形は、この時期に形成されたと言っても過言ではありません。
ところが、調子に乗りすぎた義満は、暗殺されてしまいます。歴史的に確たる暗殺の証拠はありませんが、あまりの急死であったことに加え、長男「義持」との激しい確執、「日本国王」となり皇位簒奪すら狙っていたことによる公家の強烈な反発など状況証拠は数多く、暗殺説は今も根強くあります。
父親を暗殺したかも知れない室町幕府四代将軍「足利義持」は、父親への憎悪に満ちた反発から、義満がかわいがった次男「義嗣」を殺し(一説には義満は彼を天皇にしようとした)、義満が「愛した」世阿弥を佐渡に流罪にし、明との勘合貿易も中止してしまいます。
(疲れたので次回=後編に続く)





沖縄本島に次ぐ日本で2番目に大きい島。No1、2の島とは言え、島が持っている雰囲気や歴史は大きく異なります。小生のこの島に対する最も強いイメージは「流罪の島」。鎌倉、室町時代に当時の幕府と対立した順徳天皇、日蓮上人、日野資朝、世阿弥らがこの島に流罪になりました。
小生、レンタカーを借りて、彼らのゆかりの場所を順番に回って行きました。
特に印象深かったのは、能(当時はまだ猿楽と言った)を娯楽から芸術の域まで高めた世阿弥です。世阿弥の配所【写真2】や島のいたるところにある能舞台を見ながら、15世紀の日本の歴史に思いを馳せました。あの偉大な世阿弥がここに流罪になった背景には何があったのか。
あれこれ考えるうちに、既に何回も行っているけれど、先月たまたまじっくり訪れた首里の円覚寺【写真3】や首里城の入り口にレプリカがある「万国津梁の鐘」【写真4】と、世阿弥の生きた時代の関連性に思いが至ったのでした。
世阿弥は、12歳の時に、室町幕府三代将軍「足利義満」の目に留まり、以後「寵童」として、性的な関係(ゲイですな)を含め義満に仕えることになりました。彼は幽玄美溢れる「夢幻能」を完成させ、日本初の芸能書「風姿花伝」を書き上げ、能の大家となります。
その頃の義満といえば、権力を欲しいままにしていました。そして、彼が欲した最後の権力が「皇位」=天皇の地位だったとの言われています。いわゆる皇位簒奪(さんだつ)です。
皇位簒奪の計画は周到に進められました。祭祀権や叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、将軍の権限としました。
1932年、西隣の室町殿と合わせて、御所を挟み撃ちするがごとく、その東隣(現在の位置関係は北隣だけど)に巨大禅宗寺院「相国寺」【写真5】を建設します。そして、太政大臣を辞任し、相国寺の僧として出家します。出家という大義名分を持って、天皇の臣下から離れたわけです。
1401年、義満は禅僧「祖阿」らを使節として明に派遣、明の国王「建文帝」は義満を「日本国王」に冊封しました。天皇の臣下なら「王」にはなれませんが、出家したフリーの身、晴れて日本国王になれたわけです。ここに、両国の国交が正式に樹立され、日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易が、1404年から始まりました。勘合貿易は幕府を始め、関係する全ての者に莫大な利益をもたらしました。
ちなみに、琉球において、中山王尚氏が三山を統一して、明の冊封を受けたのが1429年。「琉球王国」より20数年早く「日本王国」が誕生していたことになり、明との関係を軸にして言えば、琉球と日本、そして朝鮮は兄弟国(敵礼国と言う)だったと言えます。
さて、相国寺を開山し、義満を出家させ、明との関係を取り持つといった一連の動きに黒幕として暗躍したのが、禅宗の高僧「夢窓疎石」でした。夢窓疎石は、過去にも時の権力者に重用され、天龍寺船による元との貿易を促進して潤沢な資金を手に入れ、天龍寺を建立し、多くの優秀な門弟を育成し、日本では新興仏教であった禅宗を大きな宗門としました。
当時の禅寺は、明を主たる相手とする外国との通商交易において、通訳を務め、漢文の公用書を作成するなど、今で言う「外務省」的な役目を果たしていました。そうすることで、権力者の庇護が得られると共に、彼ら自身が貿易に関わり、さらに宗門を拡大するための膨大な資金を得ていたのです。
夢窓疎石らの目論見は成功し、五山・十刹制度の強固な体制が作られ、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合したその後の五山文化の興隆につながりました。神社仏閣の建築や庭など、現在日本の文化と言われるような具体的な形は、この時期に形成されたと言っても過言ではありません。
ところが、調子に乗りすぎた義満は、暗殺されてしまいます。歴史的に確たる暗殺の証拠はありませんが、あまりの急死であったことに加え、長男「義持」との激しい確執、「日本国王」となり皇位簒奪すら狙っていたことによる公家の強烈な反発など状況証拠は数多く、暗殺説は今も根強くあります。
父親を暗殺したかも知れない室町幕府四代将軍「足利義持」は、父親への憎悪に満ちた反発から、義満がかわいがった次男「義嗣」を殺し(一説には義満は彼を天皇にしようとした)、義満が「愛した」世阿弥を佐渡に流罪にし、明との勘合貿易も中止してしまいます。
(疲れたので次回=後編に続く)
Posted by 猫太郎 at 01:35│Comments(0)
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