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2012年03月31日

喜界やよい島

喜界やよい島


忙しい合間を縫って、たった2日間だけ、決め打ちで喜界島に行って来ました。喜界島には小生を魅了する2つの要素があります。一つは城久遺跡。もう一つは俊寛です。

琉球王国が成立するはるか以前の9世紀からヤマトの出先機関が置かれ、南西諸島や中国との交易の窓口であったと推測される喜界島。城久(グスク)という名前を含めて、琉球王国の歴史を探求する上でも、一度現地に赴いて探索する必要がありました。
鹿ケ谷の陰謀で平家打倒を企て喜界島へ流刑に処された俊寛は、日本の芸能の源流を探る上で重要な平家物語の主人公の一人として、その足跡を抑えておく必要を感じていました。

現地に行って初めて気がつくこと、ビックリすること、熟考できることが多々あるため、バカなことをしてるなあと自嘲しながらも、小生は遠くまで足を運ぶのです。
しかし、今回は城久遺跡についても俊寛についても書きません。喜界島でそれ以上のテーマに遭遇したからです。


台風で数少ない案内板が全て飛ばされてしまったという城久遺跡の発掘場所を探して、小生はサトウキビ畑や山の中の道なき道を 軽自動車で2~3時間彷徨いました。
そして、サトウキビ畑の行き止まりで出くわしたのが、自衛隊のレーダー基地でした。

日頃の勉強不足で、恥ずかしながら、喜界島に自衛隊のレーダー基地があるとは知りませんでした。そうと知ったからには、小生の反基地、反戦の精神に根ざす別の好奇心が頭をもたげて来ました。高台に移動して全景を見渡しながら、iPhoneを駆使して調査を開始したのでした。

喜界やよい島


喜界やよい島

正式には、防衛庁の通信傍受施設「喜界島通信所」というようです。20本の屹立するアンテナが直径200mの円形に配されて、巨大な円形レーダーを形成しています。
通称「象のオリ」。
かつて沖縄読谷村にあった楚辺通信所の「象のオリ」と違って、アンテナ間に電線が張り巡らされていないため、実際に象を入れたら逃げてしまいます。

1985年に計画が発表され、全島の激しい反対運動がありましたが、1991年に地元が同意。1997年に着工し2006年に運用が開始されました。以来、日夜、中国、ロシア、北朝鮮等の無線を傍受しているようです。
2006年の時点で建設・整備費は300億円。以降も毎年膨大な維持整備費がかかっていることでしょう。
膨大なお金を使って、いったいどれほどの戦争抑止力があるのか、喜界島の人達のみならず、税金を払っている島外の我々にもしっかり明示してもらいたいものです。

少なくとも、一たび戦争が起これば、このような軍事施設が真っ先に標的になります。
この数時間前に、小生は喜界空港がある中里地区の戦跡を見て回ってました。喜界空港は、戦時中は海軍航空隊の飛行場として利用されていました。
鹿児島から飛び立った特攻隊の中継基地としても知られています。ここから飛び立った若者の多くはそのまま帰らぬ人となりました。地元の子供達が出発の際、パイロットに手渡したという「特攻花」が今も飛行場周辺で風に揺れています。

喜界やよい島

当時の戦闘指揮所を見に行きました。地下室の入り口に爆撃の跡が残っており、この爆撃の際に二人の兵士がなくなったそうです。
日本軍の基地があるゆえ、中里地区は米軍の激しい砲撃や空襲にさらされ、基地周辺の140戸全戸が被災し、兵士以外にも多くの方が亡くなりました。

また、1945年8月15日の終戦が遅れれば、米軍は18万3000人の太平洋戦争中最大の兵力で喜界島に上陸し、本土攻撃への足場を築く計画であったと言われています。そうなれば、喜界島は、沖縄に続く第二の地上戦の島となり、全島でさらに大きな惨事が繰り広げられたと予想されます。
それもこれも基地があるゆえのことであり、この論理は現代にも当てはまります。実際に湾岸戦争では、真っ先に通信基地が攻撃されました。

喜界やよい島


喜界やよい島

さらに調査を進めると、興味深いことが分かってきました。
島を挙げての反対運動のさ中、1991年に一部地区の住民が「水道(灌漑)設備」の整備を交換条件に、通信基地誘致賛成に転じたのです。
喜界島は、他の奄美・沖縄の島々と同様に珊瑚礁石灰岩からなる島で、多雨にも関わらず雨水は地表に留まらず、すぐに地下に浸透し、海に流出してしまいます。「水道(灌漑)設備」のニーズは当然あったと思われます。

しかし、権力の構図を知っている者にとっては、これは、「大義名分のでっち上げ」=「とってつけたような言い訳」に過ぎないと映ります。原発誘致と同じように、裏では巨額の賄賂や交付金のばら撒きと、権力による種々の圧力・締め付けが行われ、一部地域の住民が屈服させられたという構図ではないでしょうか。

いずれにしても、軍事施設建設の対価=代償として、喜界島に巨大な「地下ダム」が建設されることになりました。通信施設誘致確定の翌年、1992年に調査が開始され、1994年に着工。2000年から段階的に運用が開始され始めました。
地面に浸み込んだ雨水を貯める地下ダムの高さは35m、長さは3Km弱。貯水量は173万m3で、東京ドーム1.5杯分に相当します。その水を、風力発電の電力等でくみ上げ、延べ長さ40Kmに及ぶパイプラインで島のあちこちに運び、スプリンクラーで畑にまくというわけです。実に壮大な企画と施設です。
地下ダムですから、サトウキビ畑にずらりと並ぶスプリンクラーと、水をくみ上げるための風車(なんと故障したまま)以外に、地上に建造物は見当たりません。主役は地下に横たわっています。
地下ダムに沿って掘られている地下トンネルに入ってみました。地表から20~30m螺旋階段で下った先に、巨大なトンネルがつながっていました。

喜界やよい島


喜界やよい島

オオゴマダラ蝶の生息地を破壊しないために、地表から直接工事をせず、一旦巨大トンネルを掘って、そこからダム建設を始めたとのこと。これも「とってつけたような言い訳、まやかし」ですね。オオゴマダラ蝶に配慮すれば、自然環境全体に配慮したような論理のすり替えが行われています。
海に流れていた地下水が、滞留あるいは循環することで、PHが変化したり、農薬が濃縮されたりする危険性が十分に考えられます。また、あまり知られていませんが、地下には地表の全ての生物を合わせた以上の総重量の生物が生息しています。(大半は微生物ですが)地下が水没することによって、地下の生態系が壊され、未知の病原体が発生するなど、地上の生態系にも影響が及ぶ可能性も否定できません。
地下ダムによる環境破壊(例えば濃縮された農薬)のために、回りまわってオオゴマダラ蝶も死滅してしまうかも知れません。

喜界やよい島


喜界やよい島

地下ダムができて、サトウキビの収穫が増えたかといえば、決してそうでもなく、1986年に12万t、1992年に10万tを記録してからは、7~8万t/年の収穫高で推移し、地下ダム完成後も10万tを超えたことは一度もありません。どころか、他の要因もあるでしょうが、2003年には6万t台の最も低い収穫量を記録しています。

建設費用はざっと300億円。
喜界島のサトウキビの毎年の売上げ高が20億円弱、農産物全体でも30億円弱で、これは利益額ではないので、ROI(投資に対する利益)で言えば、おそらく投資額は永遠に回収できません。企業では絶対に認可されない馬鹿げた投資になります。

農家の方々の労働が楽になったことは否定しません。
喜界島で唯一の製糖会社「生和糖業」の前で、TPP反対の横断幕を見ました。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に参加すれば、数倍のコスト差がある日本のサトウキビ農業など一瞬にして吹っ飛んでしまうこと必至です。TPPに参加しようという政府が、喜界島のサトウキビ農家を助けるために地下ダムを作りましたと喧伝しても何の説得力もありません。
この地下ダムは、もともと軍事施設を建設するための大義名分の存在以外の何者でもないのです。

喜界やよい島




喜界やよい島


喜界やよい島


夜、島のライブハウス「SABANI」に行きました。
普段はフォーク、ポップス系のライブをやっているようですが、この日は喜界島出身で現在は鹿児島在住の若手唄者、安田博樹さんがたまたま来店していたので、お願いして島唄を歌ってもらうことにしました。

博樹さんは、喜界島の島唄の大御所である安田宝英さんのお孫さんです。現在24歳。結婚して奥さんの故郷の鹿児島川内市で働いています。礼服を着ているので、事情を尋ねると、
「母校の坂嶺小学校の閉校式に出席してきた帰り。」とのこと。

島の人口が激減しているため、この3月中に、島にある9つの小学校が2つに減り、3つある中学校が1つになってしまうと寂しそうに博樹さんは語りました。
島の人口は現在8000人弱。地下ダムができてからのこの10年強で、1000人以上減っています。

喜界やよい島

小生はどこかで見た地下ダム事業のキャッチフレーズを思い出しました。
 「地下ダムで築こう豊かな郷土」
 「水は喜界島の未来を乗せて」
 「島民の未来を乗せて大地は潤う」

皮肉なことです。
豊かな郷土と未来を築くはずの一大事業の後にも、人口はどんどん減り、未来を担うはずの子供達の学びの場が閉鎖されて行ってます。

安田博樹さんとて、島では職がないために、やむなく唄を捨てて本土に渡っているのです。
「最近全然練習してないからなあ。」と言いながら、店の三味線の手入れを入念に行い、おもむろに朝花節、むちゃかな節、ワイド節を歌ってくれました。
ふくよかな低音、伸びやかな高音、絶妙な節回し、音の粒の揃った正確な三味線さばき。若いのによく鍛錬された唄と演奏です。

続いて、博樹さんのおじいさんが作詞作曲した島の賛歌「喜界や良い島」を歌い始めました。
軽妙な曲調の中に、「情けの島」「恋の島」「唄の島」「祭りの島」「夢と希望の島」という歌詞が連なって行きます。
確かに喜界島は魅力あふれる島ですが、「情け」や「恋」や「唄」や「祭り」や「夢と希望」があるのは、何もここに限ったことではありません。誰の故郷にもあります。地球上どこにでもあります。

素晴らしい歌を聴きながら、昼間トンビ岬近くで見たモニュメントの文章を思い出しました。「地球人宣言の町」と題がつけられたその碑には、このように書かれていました。

 「蝶の飛び交う地球人宣言の町、喜界町は東経130度00分の地点にあって、
  太平洋と東シナ海の境界線上にあります。

  国境という枠を外すと地球が丸く見えてくる。
  66億余人の地球人が、この地球とそこにある自然を愛している。
  誰もがみんな対立より調和を望んでいるのです。
 
  そんな地球の素晴らしさを実感し、地球人の夢をひとつに結びたい。
  我々喜界町民は、地球人の恒久平和と繁栄の確立にあらゆる努力を尽くすことを誓い、
  地球人宣言する。

  1988年6月』

喜界やよい島

簡単明瞭ながら、崇高な志が胸を打つ文章です。
「66億余人の地球人が、この地球とそこにある自然を愛している。誰もがみんな対立より調和を望んでいるのです。」の下りがとりわけ感動的です。

この精神を持ってすれば、誰もが「象のオリ」の軍事施設など不要だと思えるはずです。また、自然に対してあまりに不自然な地下ダムにも疑問を呈するはずです。

2つの施設に費やされたお金は600億円。
この金額は年間5億円強の喜界島の税収の100年分以上に相当します。
600億円ものお金があれば、子供達に夢と希望が与えられるもっと有効な島の活性化策が立てられるだろうにと思いながら、小生は安田博樹さんの「喜界や良い島」に聴き入っていたのでした。




【記事と直接関係のない喜界島の写真】
喜界やよい島


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