2010年08月12日
ソウルの中の「大日本」:完結編
今週、菅首相による日韓併合(新聞によっては「韓国併合」)に関する談話が発表されました。冒頭の一段は以下の通りです。
「本年は、日韓関係にとって大きな節目の年です。ちょうど100年前の8月、日韓併合条約が締結され、以後36年に及ぶ植民地支配が始まりました。三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。 」
ヤマトの支配により沖縄は筆舌に尽くしがたい苦労をしましたが、日帝支配で韓国の人々も人間の尊厳を踏みにじられるような苦しい日々を余儀なくされたわけです。
さて、小生、沖縄に頻繁に出入りする前は、実はかなり韓国に出入りしておりました。数年間にわたり30~40回行ったでしょうか。もっとも大半は仕事がらみなので、自由な時間が多くあったわけではありませんが、本てぃーだブログで沖縄関連の話題を綴っているように、前のブログでは、数多くの韓国レポを展開しました。
本筋から離れますが、音楽関係としては、「キム・ユナ」がお気に入りでした。2004年のソロアルバム「瑠璃仮面」(写真1)は、同年に出たネーネーズの傑作アルバム「愁」(与那覇歩加入)と並んで、小生が今なお好んで聴くCDです。
さて、社会性を含んだ数々の韓国レポの中で、未完に終わっていたものがあります。それが、今日のタイトルの『ソウルの中の「大日本」』です。小生の前ブログの閉鎖(非更新)から、今日までの4年間に、未完であった部分に関する解決が見られましたので、韓国併合100年を機に、ここに書き記したいと思います。
韓国併合から、5年後の1915年、日本は朝鮮王朝の宮殿「景福宮(キョンボックン)」の敷地内に「朝鮮総督府」の建設を始め、1926年に完成させました。当時東洋最大の建物は、王宮と韓国人の民族意識を威圧するに十分な圧迫感だったのです。(1996年大議論の末にこの建物は取り壊され、写真2は総督府があった場所を撮ったもの)
そして、併せて、ソウルで一、ニの大通り、世宗路(セジョンノ)を景福宮から南に1Km下ったところに、「京城府庁舎」を建設しました。言うまでなく、京城とはソウルの旧名です。
京城府庁舎は、現在のソウル市庁舎。そうです、ワールドカップの時など、数十万人のソウル市民が集り、赤一色になって応援する、あの広場にある建物です。(写真3)この建物も巨大建造物であり、国王「高宗」が22年間住んでいた「徳寿宮(トクスグン)」を見下ろす位置にありました。
ここで特筆すべきは、朝鮮総督府の建物を上から見ると「日」の字の形をしており、京城府庁舎の建物は同じく、「本」の字の形をしているというのです。そして、景福宮の北にある「北漢山」の形が、背後の山の水平な稜線を含め「大」の字を表しているといいます。(写真2)
すなわち、北から読んで「大日本」という文字列を完成させ、ソウルのど真ん中、いや、朝鮮半島のど真ん中に、それを刻印したのだというのです。大日本帝国による朝鮮半島支配の象徴とするためです。
この噂を、日本人はほとんど知りませんが、韓国人はみんな知っています。
本当でしょうか?「日」の字の建物はあっても「本」の字を形どった建物があるのでしょうか?
小生、自分の目で確かめたくなりました。市庁舎まで行くと、そのすぐ裏にソウル新聞社の高層ビルがあるのが見えます。そこからなら、市庁舎が上から見下ろせそうです。
小生、その中に「不法」侵入しました。休日で受付がおらず、ほとんどのフロアの照明が消えていました。市庁舎が見下ろせる側の高層階を調べてみると、最上階の2階下が「National Press Club」と書かれた食堂になっていることが分かりました。(写真4)しかし、休日のため中に入れません。
中に入ろうと、裏口を探したり、扉をガタガタ揺すったりしていたところ、ビルのガードマンに捕まってしまい、前ブログのレポートが終っていたのでした。
1年半年前のことです。いよいよ市庁舎の建物の後ろ半分が取り壊されるという話を聞き、これが最後のチャンスとばかり、小生2度目の不法侵入を試みることにしました。前回は休日でしたが、今回は平日を狙いました。
ソウル新聞社の社員を装い、誰かと視線が合ったら「アンニョン」と挨拶します。韓国人にしては太りすぎかしらと思いながら、ビビりながら「National Press Club」に入って行きました。
窓際まで行くと、素早く超小型カメラ(ソニーサイバーショットDSC-U10)を取り出し1枚だけ撮影。液晶画面越しに見ただけで、肉眼で見る余裕はありませんでした。
撮影した画像が写真5です。パワーシャベルも写っており、工事がかなり進行している様子が伺えます。工事の進行を考慮すれば、もともとは「本」の字であったような気がしないでもありません。いずれにしても、韓国併合100年にして、ソウルの目抜き通り世宗路を巡って噂された「日本」の刻印は跡形もなく姿を消すことになります。
それに先立つ1968年。世宗路の南の入り口に一体の銅像が建てられました。(写真6)世宗路の一番北には大統領官邸「青瓦台」が建ち、通り沿いには、裁判所や公官庁が並び、以前にも増して、ソウルの政治の中心をなす通りに変貌しています。
本来ならば通りの名前となっているハングルを発明した「世宗大王」の銅像が建てられてしかるべきです。しかし、そこに鎮座したのは「李舜臣」。
韓国併合より400年近く前に、朝鮮半島を征服しようとし、実際に半島を焦土と化した日本人がいました。その名は豊臣秀吉。
李舜臣は、文禄・慶長の役時の朝鮮の将軍で、朝鮮水軍を率いて日本水軍を撃破し、陸上軍の補給路を断ち、その結果、秀吉軍を半島から撤退させました。
いうなれば、日本(軍)を打ち負かした国民的英雄。
過去に「大日本」と刻印されたかの地の入り口に、李舜臣は仁王立ちで構えています。彼の立つ方向、睨みつける方向は、中国でもアメリカでも、まして同胞の北朝鮮でもなく、南方すなわち、日本=ヤマトに他ならないのです。






「本年は、日韓関係にとって大きな節目の年です。ちょうど100年前の8月、日韓併合条約が締結され、以後36年に及ぶ植民地支配が始まりました。三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。 」
ヤマトの支配により沖縄は筆舌に尽くしがたい苦労をしましたが、日帝支配で韓国の人々も人間の尊厳を踏みにじられるような苦しい日々を余儀なくされたわけです。
さて、小生、沖縄に頻繁に出入りする前は、実はかなり韓国に出入りしておりました。数年間にわたり30~40回行ったでしょうか。もっとも大半は仕事がらみなので、自由な時間が多くあったわけではありませんが、本てぃーだブログで沖縄関連の話題を綴っているように、前のブログでは、数多くの韓国レポを展開しました。
本筋から離れますが、音楽関係としては、「キム・ユナ」がお気に入りでした。2004年のソロアルバム「瑠璃仮面」(写真1)は、同年に出たネーネーズの傑作アルバム「愁」(与那覇歩加入)と並んで、小生が今なお好んで聴くCDです。
さて、社会性を含んだ数々の韓国レポの中で、未完に終わっていたものがあります。それが、今日のタイトルの『ソウルの中の「大日本」』です。小生の前ブログの閉鎖(非更新)から、今日までの4年間に、未完であった部分に関する解決が見られましたので、韓国併合100年を機に、ここに書き記したいと思います。
韓国併合から、5年後の1915年、日本は朝鮮王朝の宮殿「景福宮(キョンボックン)」の敷地内に「朝鮮総督府」の建設を始め、1926年に完成させました。当時東洋最大の建物は、王宮と韓国人の民族意識を威圧するに十分な圧迫感だったのです。(1996年大議論の末にこの建物は取り壊され、写真2は総督府があった場所を撮ったもの)
そして、併せて、ソウルで一、ニの大通り、世宗路(セジョンノ)を景福宮から南に1Km下ったところに、「京城府庁舎」を建設しました。言うまでなく、京城とはソウルの旧名です。
京城府庁舎は、現在のソウル市庁舎。そうです、ワールドカップの時など、数十万人のソウル市民が集り、赤一色になって応援する、あの広場にある建物です。(写真3)この建物も巨大建造物であり、国王「高宗」が22年間住んでいた「徳寿宮(トクスグン)」を見下ろす位置にありました。
ここで特筆すべきは、朝鮮総督府の建物を上から見ると「日」の字の形をしており、京城府庁舎の建物は同じく、「本」の字の形をしているというのです。そして、景福宮の北にある「北漢山」の形が、背後の山の水平な稜線を含め「大」の字を表しているといいます。(写真2)
すなわち、北から読んで「大日本」という文字列を完成させ、ソウルのど真ん中、いや、朝鮮半島のど真ん中に、それを刻印したのだというのです。大日本帝国による朝鮮半島支配の象徴とするためです。
この噂を、日本人はほとんど知りませんが、韓国人はみんな知っています。
本当でしょうか?「日」の字の建物はあっても「本」の字を形どった建物があるのでしょうか?
小生、自分の目で確かめたくなりました。市庁舎まで行くと、そのすぐ裏にソウル新聞社の高層ビルがあるのが見えます。そこからなら、市庁舎が上から見下ろせそうです。
小生、その中に「不法」侵入しました。休日で受付がおらず、ほとんどのフロアの照明が消えていました。市庁舎が見下ろせる側の高層階を調べてみると、最上階の2階下が「National Press Club」と書かれた食堂になっていることが分かりました。(写真4)しかし、休日のため中に入れません。
中に入ろうと、裏口を探したり、扉をガタガタ揺すったりしていたところ、ビルのガードマンに捕まってしまい、前ブログのレポートが終っていたのでした。
1年半年前のことです。いよいよ市庁舎の建物の後ろ半分が取り壊されるという話を聞き、これが最後のチャンスとばかり、小生2度目の不法侵入を試みることにしました。前回は休日でしたが、今回は平日を狙いました。
ソウル新聞社の社員を装い、誰かと視線が合ったら「アンニョン」と挨拶します。韓国人にしては太りすぎかしらと思いながら、ビビりながら「National Press Club」に入って行きました。
窓際まで行くと、素早く超小型カメラ(ソニーサイバーショットDSC-U10)を取り出し1枚だけ撮影。液晶画面越しに見ただけで、肉眼で見る余裕はありませんでした。
撮影した画像が写真5です。パワーシャベルも写っており、工事がかなり進行している様子が伺えます。工事の進行を考慮すれば、もともとは「本」の字であったような気がしないでもありません。いずれにしても、韓国併合100年にして、ソウルの目抜き通り世宗路を巡って噂された「日本」の刻印は跡形もなく姿を消すことになります。
それに先立つ1968年。世宗路の南の入り口に一体の銅像が建てられました。(写真6)世宗路の一番北には大統領官邸「青瓦台」が建ち、通り沿いには、裁判所や公官庁が並び、以前にも増して、ソウルの政治の中心をなす通りに変貌しています。
本来ならば通りの名前となっているハングルを発明した「世宗大王」の銅像が建てられてしかるべきです。しかし、そこに鎮座したのは「李舜臣」。
韓国併合より400年近く前に、朝鮮半島を征服しようとし、実際に半島を焦土と化した日本人がいました。その名は豊臣秀吉。
李舜臣は、文禄・慶長の役時の朝鮮の将軍で、朝鮮水軍を率いて日本水軍を撃破し、陸上軍の補給路を断ち、その結果、秀吉軍を半島から撤退させました。
いうなれば、日本(軍)を打ち負かした国民的英雄。
過去に「大日本」と刻印されたかの地の入り口に、李舜臣は仁王立ちで構えています。彼の立つ方向、睨みつける方向は、中国でもアメリカでも、まして同胞の北朝鮮でもなく、南方すなわち、日本=ヤマトに他ならないのです。

Posted by 猫太郎 at 17:40│Comments(0)
│戦争、基地問題