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2011年08月10日

与那覇歩ライブレポ「エイサーと鬼の肖像画」

与那覇歩ライブレポ「エイサーと鬼の肖像画」


与那覇歩ライブレポ「エイサーと鬼の肖像画」


与那覇歩ライブレポ「エイサーと鬼の肖像画」


与那覇歩ライブレポ「エイサーと鬼の肖像画」


与那覇歩ライブレポ「エイサーと鬼の肖像画」

7月30日、もはや恒例となった京都・大新での与那覇歩さんのライブに行きました。
金城でも2~3回ありましたが、いつも小生がかなり早めに予約を入れるせいか、記録が残っておらず、満席で空席なしとのコメント。店長と気まずい押し問答をして、後方の視界不良席へ。出足不調です。
その代わり、近くにいた常連の皆さんに順番にご挨拶ができました。

定時になってソロで登場した歩さん。夏バテなのか激ヤセに見えました。小生以上に通いつめているY氏も同じ印象。「大丈夫か!唄者はいい声を出すためにある程度の体躯も必要。」と思っていると、心配無用。初出「小浜節(くもまぶし)」の第一声は、いつも通りの伸びやかな声でした。
後で本人に訊いたら「全然痩せてない」とのこと。お化粧と髪型のせいだったのでしょうか。やせて見えるだけではなく、かわいかったです。

難しいメロディの唄と、小技の効いた三線がいきなり絶好調。
「大岳を後ろに、白浜を前に」という歌詞に、一度しか行ったことがないけれど、小浜島の景色が思い出されます。大岳の麓に小浜節の句碑があり、息を切らして標高100mの大岳に昇ると、そこには、島と海と空の絶景が広がっていました。
しかし、歌詞のように「稲粟が実って豊年」という景色はなく、それは季節が外れていたということではなく、厳しい自然によりむしろ豊年であることの方が珍しく、他の地域の豊年節同様、豊年を祈る人々の願望の唄であるということが示唆されます。
確か山頂に小浜島に1958年に赴任した与那国島出身の郵便局長が建てた碑があったと思いますが、今となっては詳細不明です。

与那覇歩ライブレポ「エイサーと鬼の肖像画」


与那覇歩ライブレポ「エイサーと鬼の肖像画」

今回は、オープンニングの「小浜節」から「ヒチガチエイサー」、椿のよっしぃ氏をギターサポートに伴っての、「島々美しゃ」「ファムレウタ」「月ぬ美しゃ」「どぅなんスンカニ」と頭6曲の怒涛の民謡路線(ファムレウタは民謡ではないですがカッコいい)が特に感動的でした。
歩さんが歌う沖縄ポップスもオリジナル曲もいいけれど、小生は八重山・沖縄民謡の路線が、一番好きです。彼女自身のアイデンティティとプライドの発露。抜群の唄のうまさと相まって、有無を言わさぬ迫力を醸し出します。
柔らかい奏法のよっしぃ氏のギターとの相性もなかないいです。リバーブが少なめの自然な声、鍛錬された丁寧な歌唱に今日もうっとりと聴きほれます。

時節柄、2曲目の「ヒチガチエイサー」に注目してみたいと思います。
沖縄の夏の一大イベントエイサー。「ヒチガチエイサー」は、言うまでもなく(旧暦)7月のエイサーという意味です。
エイサーでよく歌われる2曲をまとめて1曲にした曲なのでしょうか。「ヒーヤ!」という歩さんの天を突刺すような掛け声と共に、「仲順流れ」の一節が流れて来ました。リズミカルな三線に、これまた素晴らしい唄。沖縄の人々の情熱と希望を込めたエイサーの光景が浮かび上がってきます。

「仲順流れ」が全編歌われることは、今ではあまりないとのことですが、この唄の内容は浄土宗の念仏歌そのものです。ただひたすらに「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることによって、極楽浄土に行けると説いた浄土宗。念仏の後に続いて歌われた念仏歌。念仏歌を歌いながら踊った「念仏踊り」がエイサーの起源と言われています。

小生は、歩さんのブログに「大新まで来たなら、すぐ近くの『檀王法林寺』にお参りに行くべし。」と2度書いたことがあります。大新からお寺まで直線距離で200m、歩いてたった3分くらいの近距離です。
檀王法林寺は、念仏踊りを琉球にもたらした「袋中上人」が、琉球国滞在から戻って京都に建てた寺であり、その痕跡として、屋根にシーサーが乗っています。
小生の再三の勧めにも関わらず、歩さんはまだエイサーゆかりのお寺に行ってないと思いますが(大新から歩いてたった3分なのに)、京都を訪れた沖縄関係者は是非行ってほしいと思います。

与那覇歩ライブレポ「エイサーと鬼の肖像画」


与那覇歩ライブレポ「エイサーと鬼の肖像画」

袋中上人のプロフィールを、檀王法林寺のHPから抜粋します(一部追記)。上人が興したお寺のHPの記述なので、敬語調になっています。

「上人は天文21年(1552)磐城国(現在の福島県いわき市)にお生まれになり、14歳で出家し「袋中良定」と称するようになりました。
上人はさまざまな地で修学に励み、浄土宗の教えをことごとく相伝されました。天正5年(1577)には、江戸増上寺で浄土宗白旗派の奥義を極め、故郷の成徳時13世となられました。
51歳の時に明へ渡ろうと決意し、翌慶長8年(1603)、その意思を固めた上人は、兄の以八上人の反対を押し切って明への便船を求め、長崎平戸より出国されました。しかし、当時の混沌とした国際情勢は上人の入国を許さず、やむなく琉球に上陸し留まることになったのです。

3年の琉球滞在中、上人は浄土念仏の教化布教を熱心に努められました。当時の琉球国王、尚寧王は上人に深く帰依されて、桂林寺(現那覇市松山)を建立しました。
上人の布教活動は、それまでの難解な仏教に比べ、易行易修(ただ念ずることによって救われる)であったため親しみやすく、国王から一般民衆にいたるまで、多くの琉球の人々に影響を与えました。

袋中上人の伝えた仏教は、身分を越え多くの人々から信仰を集め、琉球の文化にも大きな影響を与えました。袋中上人直系の浄土念仏を真似たものにニンブチャー(念仏者)という集団があります。彼らは葬儀の際、雇われて念仏鉦叩きをしているもので、浄土宗の寺院のみならず、宗派をこえて活動していました。彼らの残す念仏歌の歌詞にも、袋中上人の影響が強くみられるようです。
また、沖縄の伝統芸能として今に伝わるエイサーは、精霊送りの時に行われる盆踊りがもとになっているとされています。その起源は袋中上人が浄土念仏とともに伝えた念仏踊りにあると考えられ、沖縄では袋中上人をエイサーの祖と考えている人も多くみられます。」

袋中上人のここまでの話は、皆さん周知の事実であり、隠れた史実にスポットライトを当てる「ネコ灰だらけ」としては、まだまだ探求が甘いというものでしょう。そこで、今回小生が探求するのは、袋中上人に帰依した「尚寧王」についてです。

慶長14年(1609)、琉球国は、徳川幕府の許しを得た薩摩藩島津氏に侵攻され、降伏しました。その時の国王が、尚寧王でした。
薩摩藩は、琉球国の方々で行われていた念仏踊りを見て、「偽念仏(念仏踊り)はお盆の期間に限る。」という通達を出します。袋中上人が琉球王国に流れ着いたのが、1603年。薩摩の侵攻が1609年。わずか数年の間に、念仏踊りが民衆の間に広く浸透したのは、尚寧王の帰依と密接な関係があると思われます。
国王が帰依したからこそ、王族も地方の按司も民衆も右へ倣えとなるわけですし、あるいは、国王自身が国内に向け念仏を奨励したのかも知れません。
いずれにせよ、袋中上人が琉球国に持ち込んだ念仏を、国王の立場で国内に広めたのが尚寧王であり、この二人がエイサー創始のキーマンであったと言えると思います。

薩摩藩へ降伏後、尚寧王は駿府の徳川家康や幕府の徳川秀忠と接見するため、島津家久に伴われ、江戸に上りました。(この時尚寧王に同行したのが、弟の具志頭王子。彼のことは、拙文「蒼井優の白い背中に映った琉球国の運命」を参照。)
江戸へ上る途中、尚寧王は京都で袋中上人と面会しました。残念ながら、彼らが何を話したのかの記録は残っていません。おそらく、尚寧王は、袋中上人に「国が滅ぼされてしまった。上人や阿弥陀仏の力でなんとかならないか。」と涙ながらに訴えたと思われます。
しかし、それは、袋中上人にとっても無理なお願いであったと、小生は推察するのです。

袋中上人が修行を積み奥義を極めたという「江戸増上寺」は、徳川家の菩提寺です。上人はリベラルな仏教人であると同時に、最高権力に通じる組織人でもありました。幕府の意向を受けた薩摩藩の琉球国征服に関し、幕府に抗議できる立場ではなかったのです。
それどころか、上人が滞在中に琉球国の様子を書き記した「琉球往来」の中には、琉球国の武器・武具を巡る記述もあり、上人には一部で幕府の密偵との疑いがかけらていました。仮に密偵でないにせよ、「琉球往来」の内容が、薩摩藩の琉球国侵攻のための調査材料に活用された可能性がないとは言えません。

小生は政治権力と並んで宗教権力にも不信感があるため、あまりのタイミングの良さもあって、袋中上人は本当は幕府の密偵でなかったかの疑義が拭い去れません。
袋中上人は、琉球国から帰国後、檀王法林寺を始めとして、京都に20以上の寺院を建てました。その資金は一体どこから出たのか。幕府や薩摩藩から出た可能性はないのでしょうか。

小生がここまでこだわるのは、ある一幅の絵を見て、尚寧王の悲痛な叫びを感じ取ったからです。

尚寧王は、2年間薩摩藩に拘留されました。
拘留中に、袋中上人の肖像画を描き、それを上人に送りました。(一番下の写真。壇王法林寺のHPより)
後に檀王法林寺で見つかったその肖像画には、賛文も書き込まれていました。

その和訳を下に記します。(藤堂恭俊博士訳)
「扶桑の師(袋中上人)は堅固にして、徳風つとに世に国を越えて自由自在に顕れます。万里を超えて琉球の港に着き、自覚覚他、佛と法とを念ずることを以ってされ、ついにその證を得られたのでございます。
上人のその行動と法への通暁にはただ瞻仰(せんぎょう=敬い慕う)申し上げる他ありません。
水鳥や樹木、大自然のすべてが仏法を説いている、とは即ち自然には悟りがあるという師の教えを指し、また浄土の世界は遠からずという師の旨を指すのであります。そして、ただ一向に念ずれば直ちに至ることができ、二六時中に大師(浄土)は来現すると説かれました。

師に教えを請うたことは決して少なくはありません。我々は師をお護りし、師は法の為に尽くされました。私は法を護りて師を奉るために、師の像を描きました。
師が桂林寺をお作りになられて以来、我が師と仰いでおります。
西方浄土への導きを扶助と申し上げ、功徳と申し上げ、この徳を瞻仰することを仏に誓います。
大地は荒れ果てても、二因一在を守り、智恵の眼を見開き正しき行いを守っていれば、身心は清浄であり、これは即ち西方浄土に通ずるものなのであります。
辛亥春三月 琉球国王 尚寧図併題 贈袋中上人座下」

自分の国を実質滅ぼされた国王の悲哀が漂ってきます。それ以上に、袋中上人への深い帰依と揺るぎない信仰心が読み取れ、この部分は本心と思われます。
「大地は荒れ果てても、(中略)智恵の眼を見開き、正しき行いを守っていれば、身心は清浄であり、これは即ち西方浄土に通ずるものなのであります。」との下りは涙なしには読めません。

問題は上人の肖像画です。
この鬼のような表情はなんでしょうか。大上人の肖像画は数々あれどこれほど厳しい形相の絵を見たことがありません。文章は薩摩藩の検閲が入るため、本当に言いたいことが書けなかった可能性があります。尚寧王は、絵をもって抗議をしたかったのではないでしょうか。
「袋中上人、あなたは幕府にも上申できる立場なのに、我々琉球国のために何もしてくれなかった。」
あるいはもっと深読みしたケースはこうなります。
「袋中上人、あなたは幕府の密偵として琉球国に来て、国を滅ぼす基を作った。私はあなたの教えに導かれ仏に帰依した。あなたは仏の使いであるが、同時に鬼である。」
それほどの怨念が込められた絵であると小生には思えてしまうのです。

歩さんのライブに戻ります。
2nd setは、1st setの静かな曲調と打って変って、「安里屋ユンタ」「与那国小唄」「花」「あしびなー」「ヒヤミカチ節」「愛燦燦」と、有名曲やアップテンポな曲を並べて、親しみやすく乗りの良い雰囲気でした。若干声の調子が悪かった気もしましたが、そこは勢いでカバー。アンコールはいつものように「カチャーシー」で一気にヒートアップです。

半年ぐらい前から、歩さんは「カチャーシー」に「ヨイ、ヨイ、ヨイ、ヨイ!」という阿波踊りのお囃子を取り入れています。
歩さんは知ってか知らずか、エイサーと阿波踊りは、もとをたどれば同じ出所です。阿波踊りのルーツは、京都の「風流踊り」で、風流踊りのルーツはエイサーと同じ念仏踊りです。

阿波踊りにもまたエイサーと同じように重い歴史があるに違いありません。そこに関わって来た人達の数多の喜びや悲しみや恨みを包含しながら、歴史は黙々と進行して行くのです。

与那覇歩ライブレポ「エイサーと鬼の肖像画」



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