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2011年07月27日

萱森直子ライブレポ「西鶴の不覚」

萱森直子ライブレポ「西鶴の不覚」


萱森直子ライブレポ「西鶴の不覚」


萱森直子ライブレポ「西鶴の不覚」

高速道路料金の休日1000円制度がなくなったにも関わらず、片道400Kmの道のりを車を飛ばして、新潟県出雲崎まで瞽女唄を聴きに行きました。最後の瞽女と呼ばれた人間国宝の小林ハルさんの直弟子、萱森直子さんのワンマン公演です。

会場は、切妻造りの家が並ぶ江戸時代の旧道にある「妻入り会館」。趣きのある町並みに趣きのある会場。靴を脱いで畳に座ると、娯楽の乏しい時代に「瞽女さんが来た!」と言って大騒ぎして、近所から老若男女が集まり瞽女唄を聴き入った情景が頭に浮かびます。昔の人たち同様、小生も1年に1度見られるかどうかの瞽女唄を楽しみにやって来ました。距離は100倍ほど違いますが。

萱森直子ライブレポ「西鶴の不覚」

瞽女の語源は「盲(めくら)御前」と言われています。盲目の女性が数人単位で全国を旅しながら歌った瞽女唄の起源は室町時代まで遡り、日本の大衆芸能の原点となりました。江戸時代には越後を中心に各地にあった瞽女の組織は、昭和30年代以降、娯楽の多様化と共に徐々に減り、今では新潟県に数人の伝承者を残すのみになっています。

1958年新潟市生まれの萱森直子さんは、数少ない瞽女唄伝承者の一人です。全国で地道な公演活動を行うと同時に、NHKの「新日本紀行ふたたび」、ドラマ「女歌 夢の道行き」や、石川さゆり主演のお芝居「夢売り瞽女」の制作に関わるなど、表舞台でも活躍されています。

本日の演目は、祭文松坂「八百屋のお七」。
祭文松坂とは、七五調で繰り返し長々と歌う口説のことで、非常に長い段物構成になっており、今も昔も瞽女唄公演のメインディッシュと言うべきものです。             
「八百屋のお七」は全4段。全部を歌うと2時間半の演目です。1分ほどの三味線のテーマがあって、2~3分の唄があって、ひたすら同じメロディを繰り返します。
そんな退屈なと思うなかれ。
ミニマルミュージックの呪術そのそのものです。小生の専門分野である70年代のジャーマロックの精神です。単純な繰り返しが、かえって、聴衆を物語の深みへと導いていきます。音のシンプルさが、もがけばもがくほど出られなくなる蟻地獄のような世界を構築して行きます。

「八百屋お七」の説明もしておきましょう。
実話を基にした物語です。江戸時代前期、江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘お七は、幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こし、火あぶりの刑に処されました。一途な悲恋は、事件の3年後、井原西鶴の「好色五人女」の第四巻に取り上げられ、以後、浄瑠璃・歌舞伎の題材として、全国に広まりました。その過程で、瞽女唄にもなったと推察されます。

八百屋お七の詳細について、以下にwikipediaから転記します。
『お七は天和2年12月28日(西暦1683年1月25日)の大火(天和の大火)で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎とも)と恋仲となった。翌年、彼女は恋慕のあまり、再び火事が起これば小姓に会えると思い、放火未遂を起した罪で捕らえられ、鈴ヶ森刑場で火刑に処された。

その時彼女はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったため、町奉行・甲斐庄正親は哀れみ、何とか命を助けようとした。当時15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならないと言う規定が存在したため、甲斐庄はこれを適用しようとしたのである。厳格な戸籍制度が完備されていない当時は、役所が行う町人に対する年齢の確認は本人の申告で十分であった。それに対し彼女は正直に16歳であると答えた。
甲斐庄は彼女が自分の意図を理解出来てないのではと考え、「いや、十五にちがいなかろう」と重ねて問いただした。ところが彼女は再度正直に年齢を述べ、かつ証拠としてお宮参りの記録を提出することまでした。これではもはや甲斐庄は定法どおりの判決を下さざるを得なかった。』

話は少しそれますが、小生、品川にある鈴ヶ森刑場にも行ってみました。
そこには、お七が火あぶりになった処刑台が当時のまま残されており、死を選ばざるを得なかった悲恋と、灼熱の苦しみに満ちた最後を思うと胸が締め付けられる思いでした。

今回の萱森さんの公演は、時間の関係で、お七と吉三の恋慕が高じていく一の段(忍びの段)と、凄惨な最後の四の段(火あぶりの段)のみでした。四の段とは違った意味でのクライマックスである三の段(床入りの段)は残念ながらカットでした。

しかし、それを補って余りある萱森さんの瞽女唄。その歌唱は迫力の一言です。
ブルースにも通じるゴツゴツしたシャッフル気味の三味線のテーマに続いて、うなるような発声。少しひしゃげたような声と、タメとコブシを効かせた節。まるでお七の怨念が乗り移ったようです。
終始目をつぶって歌う姿は、まるで瞽女さん。お七の怨念だけではなく、400年の瞽女の歴史も背負っています。瞽女の歴史は、光を知らない暗闇の歴史。もともとの存在理由からして、中途半端な歌い手ではないのです。

七五の節が8小節続いて、また三味線のテーマ。この繰り返しで、物語が進行していきます。固唾を飲んで聴き入る聴衆。誰もが手に汗を握って聴いています。
そして、随所にちりばめられた「言葉遊び」。井原西鶴の原作には見当たらない脚色です。例えば、一の段で、お七が吉三にあてた恋文の文面はこのような歌詞になっています。

「だて主さんに ほうれん草
 わらびが心を うどうどと
 うりな願いの 山の芋
 心が竹の子 願いあげ
 神々さまへ れんこんし
 いつか嫁に なりたやな
 もしもいやなと 言われたら
 なんとしょうろ くりくりと」

八百屋お七に引っ掛けた「青物尽くし」。これ以外にも「虫尽くし」「鳥尽くし」「忠臣蔵尽くし」「神仏尽くし」など次々登場し、目くるめく言葉の万華鏡を展開しています。
残念ながら、今回は歌われませんでしたが、萱森さんから口頭(MC)で紹介のあった、床入れの場面も記しておきましょう。かなり生々しい14歳同士の床入れのシーンを「花尽くし」にすることにより、上品にまとめ上げています。それでも、昔の農村の人には興奮ものの下りだったでしょう。

「あかりを消して 下しやんせ
 初床入れの ことなれば
 わしや恥ずかしいと 言うままに
 口水仙の 玉椿
 手足はしっかと からみ藤
 からみついたよ 藤の花
 色紫のほどのよさ
 五尺からだの真ん中に
 締めつ緩めつ 初鼓
 打ち出す音色の おもしろさ」

淡々と同じメロディを繰り返すのが祭文松坂。しかし、徐々に、そして確実に、萱森さんの歌のボルーテージは上がっていきます。声の大きさ、トーン、震え、タメの深さが、カタストロフィに向かって加速します。
萱森さんの歌に導かれ、1時間半たっぷりとお七に感情移入した聴衆。最後に待ち構えていたのは、この世の地獄、火あぶりの刑です。
愛する人の死刑判決を知らなかった吉三。火あぶりのその当日にそれを知り、群集をかき分けて処刑台へと走ります。ようやくたどり着いた時、まさにお七の命が途切れようとしていました。
見詰め合うお七と吉三。「吉さん思えば熱くない。」と叫ぶお七。
もはや、涙なしには聴けません。多くの聴衆の目から涙が溢れます。
この下りの歌詞も書いておきましょう。

「お七熱つかろ せつなかろ
 お七はそれを 聞くよりも
 吉さん思へば 熱くない
 言はれて吉三も たまりかね       
 黒髪切つて 今は早
 煙の中へと 投げ出だす
 お七はそれと 見るよりも
 申し上げます 吉さんへ
 主がその身に なるからは
 娑婆に思ひは 残らんと
 十六歳と 申せしは
 無常の煙と 立ちのぼる
 まずはこれにて 段のすゑ」

ハリウッドの映画も大河ドラマも及ばない瞽女唄の一大スペクタクル。400年間何代にも渡り、庶民はこれらの瞽女唄をハラハラドキドキと楽しみ、悲しみ、人生の糧としてきたのです。現代のチープな音楽などチャンチャラおかしくて聴く気が起こりませんな。
高い高速道路料金を払い、往復800Kmを運転しても聴く甲斐があったなあと満足して帰路に着いた小生なのでした。


今日の話はこれで終わりません。
その1週間後、あまりに悲しい「八百屋お七」の物語を書いた井原西鶴の墓参りに行くことにしました。大阪・谷町八丁目の誓願寺という浄土真宗のお寺に西鶴のお墓はありました。

井原西鶴は、近松門左衛門、松尾芭蕉と並んで、江戸時代の三大文人と称される、俳人であり、浮世草子・人形浄瑠璃作家です。代表作は、なんと言っても「好色一代男」とそれに続く「好色一代女」でしょう。
「一代男」の方は、一人の男性の7歳から60才までの女性遍歴を綴ったものです。相手の女性の多くは娼婦で、その数は1000人以上にも及びます。
一方、「一代女」の方は、一人の女性が、大名家の姫君から、悦楽と苦悩が入り混じった娼婦へと堕ちてく様を描いたものです。
これらは、娯楽物語であると同時に、武家社会の倫理観にクサビを打ち込むものとの論評も見受けられますが、要は西鶴の体験に基づく人間観察の物語なのです。西鶴は、ある意味社会の底辺に生きる娼婦達の目線で、生きるとは何か、人間社会とは何かを説こうとしたのです。西鶴は、彼自身の性に対する葛藤を抱えながらも、弱者には暖かい視線を送ることができる文人だったと思われます。

西鶴の墓の横に、彼自身の筆による句が転写された碑が建っていました。そこにはこう書かれていました。(写真ではかなり見にくいですが。)

「鯛は花は見ぬ里もあり 今日の月」

=貧しさゆえ、鯛を食べられず、お花見もできない里もありましょう。
しかし、今日の中秋の名月は、貧富は関係なく、誰もが平等に見ることができるので、嬉しいことです。

貧しい者への限りない暖かな気持ちが溢れる大変いい句です。西鶴の人柄を再認識させられます。

しかし、小生、ふと違和感を感じました。
西鶴の書いた「八百屋お七」は、大阪の商人や江戸の武家のための人形浄瑠璃や歌舞伎だけではなく、瞽女唄にもなって、貧しい里の人々にも愛されました。
ところが、貧しい里の人にも鑑賞できるという中秋の名月は、瞽女さんには見えないではないですか。
「西鶴め。本当に社会の底辺に暮らす人々のことまで、考えが及ばなかったな。しかも、その人たちが、全国津々浦々にまで、あなたの作品を届けたのですよ。不覚でしたね。」
小生は、苦笑しながら、西鶴のお墓に手を合わせたのでした。

萱森直子ライブレポ「西鶴の不覚」


萱森直子ライブレポ「西鶴の不覚」



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この記事へのコメント
しもた~!!
鈴ヶ森刑場とお七の火あぶり台の写真貼り忘れた~。
今からリサイズとかしてアップするの手間入りだし、やむなく諦めました。
おやすみなさい。
Posted by 猫太郎猫太郎 at 2011年07月27日 01:56
「年に一度は生ゴゼ唄」に私も1票!
あれはスペクタクルです。聞き終わったあと発散した自分がいます。
Posted by オニダ at 2011年07月27日 22:29
>オニダさん

月に一度は、ゴゼ唄ライブに行こうかと画策中です。
今月は長野でありまっせ!
Posted by 猫太郎猫太郎 at 2011年08月06日 00:50
今年もあります。機会あればお出かけ下さい。
http://blog-eda.net/gozeuta/
Posted by BH at 2012年02月13日 10:10
>BHさん

返事が遅れてすみません。
1ヶ月近くサボっておりました。

ご案内ありがとうございました。
上のオニダさんからも連絡をいただいておりましたが、運悪く24日から奄美の喜界島に行く予定にしております。
来年は行かせていただきますので、またよろしくお願いします。

なお、越後方面も時々出かけておりますので、本場でのゴセ唄イベントがありましたら、是非ご案内いただければと思います。

先々週は、新潟市でperfumeを見てまいりました。
Posted by 猫太郎猫太郎 at 2012年02月19日 00:45
 
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