てぃーだブログ › ネコ灰だらけ › 自然科学 › 永良部百合の花

2011年05月22日

永良部百合の花

前回の記事でブログ(のペース)を普通に戻すと言ったにもかかわらず、仕事が殺人的忙しさ(=ほとんど家に帰ってない)のため、結局全く書けない状態が続いていました。一方で、GWの奄美群島旅行や、忙しい合間を縫って行ったライブ観戦など、ブログネタは溜まるばかりで、本日休日出勤の会社において、こっそりとブログ記事を書いております。日々「今日こそ書かなきゃ」と切迫感を感じてますよ。

散々溜まりまくったネタの中で、優先的に書かなければならないのは、はやりGWの奄美ネタでしょうね。

小生、大島→徳之島→沖永良部島とフェリーで南下して行きました。
沖永良部に着くと、飛び込みでレンタカーを借り、ナビなし車で方向もわからないまま最初に着いた先が、笠石海浜公園でした。

甘い匂いが一面に広がっています。匂いの先に行くと、そこには数万本の白い清楚な永良部百合が咲き誇っていました。一面満開です。いやはや、感動的。言葉がありません。
「永良部百合の花」の唄で有名な百合を目の当たりにし、その白い眩しさと甘美な匂いとで頭がクラクラしました。

小生、1万円のデジカメで百合の花の写真を撮っていると、30万円くらいの一眼レフをぶら下げた青年がこちらに向かってきました。30歳くらいでしょうか。大柄で短髪の実直そうな印象と高級一眼レフはいささか不釣合いに見えました。
「あのー。○○新聞社のFと申しますが、取材をお願いしてよろしいでしょうか。」と名刺を出す記者。

ほほう。旅のアクセントだわ。「いいですよ。」と小生も名刺を返す。
「永良部百合を見るために、来られたのでしょうか。」と記者。
「いやいや、道に迷って、ここにきました。」
記者の顔に戸惑いの表情。
「では、奄美群島には、どんな目的で来られましたか。」
ここぞとばかり小生。
「薩摩と琉球の両方から支配され差別され、苦難の歴史を歩んできた奄美。島唄(=もともと琉球ではなく奄美の唄のこと)の本質は苦しみであり、悲しみなんですね。アメリカの黒人のブルースと同じですよ。昼間は歴史の現場を見て、夜は島唄を聴くためにやって来ました。おとついは、昼間『かんつめ』のお墓参りをして、夜民謡居酒屋で『かんつめ節』を聴きました。しかし、リクエストのため、曲名を口にした途端、店の空気が凍りました。歌うのにママさんの許可を得ないといけない。黒糖圧政の犠牲の象徴『かんつめ』は、ヤンチュ制度を含め、ある種のタブーなんですね。本の知識ではなく、歴史の積み重ねの上に成り立つ現場の空気の中に身を置き、直接謙虚に見聞きすることによって、人生や社会を考える大きな材料になるんですよ。」
正直な心情の吐露でしたが、ここまで喋って、ハッと我に返りました。
相手がマズかった。新聞記者とは、スタンスとして反権力、歴史が得意、現場の重要性を十分認識したこういうものの見方の専門家なのです。彼の方が理論武装しているに決まってます。なんだか、馬鹿にされそうな気がしました。
「ん~。新聞記事のステレオタイプみたいなことを言っちゃいましたね。」
照れ笑いを浮かべて、小生はごまかそうとしました。
ステレオタイプとは、ある事象に対する定型化した紋切り型のイメージのことです。例えば、欧米人から見た日本人の紋切りイメージは、「メガネをかけて、カメラを首からぶら下げて、お辞儀をする」と言うようなものです。

F記者、当然この社会学用語に鋭く反応し、
「いやー、今猫太郎さんのおっしゃったのは、新聞でも社説レベルのステレオタイプですよ。記事の方は、もっともっと単純なステレオタイプになってます。気の利いたことを書いてもパターン化された受けのいいものに直されちゃう。」
「へー。例えば、こんな感じのステレオタイプの記事ですか。『本土から永良部百合を見に来た観光客の猫太郎さんは、白が美しく、香りもいいですと、熱心に写真を撮っていた』。ですね。」
「はいはい。そんな感じです。」とF記者。と同時に記者としてある種の自虐的な笑い。

小生、ステレオタイプというキーワードを基に、自分の専門分野(小生は一応科学者)に引き込む作戦に出ました。
「Fさん。小生は、永良部百合が綺麗だなんてまだ一言も言ってませんよね。この2万本の花を見て下さい。茎の太さも、背の高さも、花の大きさも、一本あたりの花の数も、花びらの色目も、開花時期も全く一緒です。永良部百合とはこういうイメージということで、商品として作られ過ぎてませんか。永良部百合といったら、こうあるべしというステレオタイプですよ。みんなが期待する姿を寸分も裏切っていない。
この島で百合の栽培が始まって、100年を越えました。土地が痩せ、毎年台風が襲来するこの島の経済を支えてきた百合栽培の歴史や伝統、すなわち人々の苦労や喜びや希望が、この永良部百合には宿っているわけで、この花の価値や存在を否定するわけではありませんが、小生はこの畑の百合たちよりも、野山の雑草の中で寂しくも逞しく咲いている百合の方が好きですね。野山の百合は、一本一本、背丈も、太さも、花の色あいも、匂いも、開花時期も違うけれど、個性と生命力を感じます。

野山の百合は受粉した種で発芽します。一方、ここにある商品は、球根から発芽します。なぜ「受粉」が、つまり動物を含めて雄(しべ)と雌(しべ)による「生殖(=セックス)」が必要かわかりますか。親の代の遺伝子2種類をスクランブルして、子の代の遺伝子のパターンを微妙に変えて、ウイルスの攻撃を受けにくくするためですよ。ウイルスは、自己増殖できないため、動植物の遺伝子にもぐりこんで、遺伝子の増殖を利用して増えて行きますからね。遺伝子の情報(パターン)を解析され、もぐりこまれる前に形を変えているのです。
受粉した種からの百合は、本質的に一本一本みんな違います。一方、綺麗な花が咲いて均質な商品になりやすいからって、球根でどんどん増やしていった花はどうなのか。いわばクローンです。この花畑がそうですね。全く同じ形の綺麗な花が咲くけれど、代替りしてもみんな全く同じ遺伝子を持ってるから、ある日ウイルス感染をしたら、一挙にやられちゃう。生殖による遺伝子維持の機構が働かない。
同様に、綺麗な花が一斉に咲くソメイヨシノもそうですよ。あれも江戸時代から挿し木で増やして来たから、みんな同じ遺伝子。全く同じ遺伝子のものを いつの間にか日本中に植えてしまいました。桜は一気に散るから風情があるなんて、のん気なことを言ってると、ある日突然日本中の桜が一気に枯れちゃうなんてことも起こりえますね。
社会もそうかも知れない。個性を重視しない教育システムや、あなた方新聞を含めて大量に流される画一的な情報で、社会全体の思想や行動が均質化しちゃっている。悪意を持った権力、為政者、世界的金融資本、巨大多国籍企業をウイルスにたとえると、均質な遺伝子は一挙にやられちゃうんですよね。世の中には、いろんな思想や文化や歴史があって、それを認め合って生きていくという多様性こそが、健全で堅強であって、均質化した社会は、やはり不健全で脆弱だと言わざるを得ませんね。
だから、この畑の百合も、日本の桜も不自然な姿だと思います。小生は野山にひっそりと、でも逞しく咲く不揃いの百合の花が好きです。記事にはそういうことを書いて下さい。以上!!!理解していただけましたか。」

F記者「はい」と言って、こう続けました。
「面白い話でした。頑張って書いてみます。しかし、新聞もステレオタイプで均質な情報しか流せませんしね。本当に書きたいことを書こうと思ったら、この世界もフリーライターになるしかないんですよ。」


その晩は、ホテルの近くの居酒屋に行きました。
ホテルで、島中の民謡居酒屋やライブハウスを調べてもらったら、沖永良部出身の大山百合香さん(おお、素敵な名前!)のお父さんが経営しているお店を含めて全て休業。
仕方なく普通のお店に入ったのですが、小生が民謡好きだと知ると、ママさんが三線を習っているという娘さんを 車で30分の遠方からわざわざ呼んでくれました。
由美子さんという若い娘さん、恥ずかしそうに、「永良部百合の花」を歌ってくれました。島で二人の息子さんの子育てに奮闘しながら、寸暇を惜しんで三線の練習をして、今こうして一生懸命歌う姿。
いいね、いいね! 那覇の民謡居酒屋でステレオタイプの「島んちゅの宝」を聴かされるより1000倍いい。
由美子さんが毎日一生懸命生きているいうことの息吹を感じます。脈々と受け継がれてきたこの島の歴史と文化を感じます。唄の命そのものを感じます。
由美子さんを見ながら、彼女こそ昼間記者にウンチクを垂れた「野に咲く一輪の百合」のイメージだと思いました。小生、なんだか満ち足りた気分になり、グイと黒糖焼酎をあおったのでした。


さて、数日後。
新聞社のHPで、F記者の書いた記事を発見しました。そこには、こう書いてありました。
「本土から沖永良部島に観光で訪れた猫太郎さんは、永良部百合の畑の中で『美しくて、香りもいいですね。』と、熱心に写真を撮っていた。」

永良部百合の花


30万円のカメラを構えるF記者を1万円のカメラで逆撮り
永良部百合の花


永良部百合の花


由美子さん
永良部百合の花


以下おまけ(沖永良部島にて)
永良部百合の花


永良部百合の花


永良部百合の花


永良部百合の花




Posted by 猫太郎 at 01:49│Comments(0)自然科学
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。