2011年03月07日
nenes東京ライブレポ「赤田首里殿内と草履の謎」
3月2日、東京・小岩の「こだま」にネーネーズを見に行きました。【写真1~5】
年末のブログで「ネーネーズはもう見に行かない。」と書いたものの、前回訪沖時にこっそりと「島唄」に行ってしまいました。その次の日、たまたま歩さんのライブを見に行ったメンバーの真優子ちゃんが歩さんに「昨日猫太郎さんが来てたよ。」と言ったのを受け、歩さんが小生に「(もう見に行かないなんて言わないで)ネーネーズ共々よろしくお願いします。命ぬある間、とぅやいしゃびら(=どぅなんスンカニの歌詞)」と説教するように言ってくれましたので、小生も胸のつかえが取れたかのように、出かけたのでした。
ネーネーズの東京ライブはいつも満席です。一人で行くと、ステージ正面のテーブル席には座らせてくれなくて、楽屋前のカウンター席になります。
ふと足元を見ると、メンバーの草履が4足並んでいました。【写真6】それぞれの草履には、持ち主の名前が書かれています。「H」「D」と大きく書かれた草履は、消去法からNちゃんのものと思われます。HDとは一体何を意味するのでしょうか。小生思いつくのは、浜崎伝助(釣りバカ日誌)かハクション大魔王くらいのもので、何なのかさっぱり分かりません。そして、それ以上に気になったのは、その草履だけ、向きが揃ってなくて、片方が横を向いていることです。
今日はこの話を裏の軸として進めて行きたいと思います。
遠征と言うこともあって、メンバーのテンションはかなり高いです。明らかに、島唄での彼女達より元気があります。そしてMCも長いです。
しかし、MCのうちの2つのネタは、去年と一緒じゃないの!小生ライブ観戦メモを取っているから忘れませんよ!
一つは、卒業式の服装で歩いている女の子に、「卒業おめでとう」と声をかけたら「突然なんなの」という表情をされ、「ああここは東京なんだ」と思い知らされたという話。もう一つは、東京では駅で人とぶつかっても誰も謝らないのだけれど、珍しく謝った人の顔を見たらウチナーンチュの顔立ちをしていたという話です。
仕込みネタは常に更新しないとダメですな。
島唄では1ステージ1曲しばりの新譜ナンバーは全部で7曲と大奮発。
そのうちの1曲が「赤田首里殿内」です。この曲は、観客も振り付けを一緒に行ってライブの一体感が出るため、歩さんやおおまりさんもよく演奏するレパートリーです。しかし、ネーネーズの新譜に収められている「赤田首里殿内」は何とも珍妙なアレンジ。小生には信じられないセンスです。まあ彼女達のせいではないので、今日のところは不問としましょう。
この曲、首里赤田町において、琉球王朝時代から石川家を中心に行われてきた祭礼「弥勒迎け(ミルクうんけー)」で唄われていた童歌で、八重山で歌い継がれている弥勒節の一つと言われています。
先に歌詞を書きましょう。(wikipediaより抜粋転記)
(1)
赤田首里殿内 黄金灯籠提げてぃ
〈首里赤田村の首里殿内に 黄金に輝く灯籠を提げて〉
うりが灯がりば 弥勒御迎え
〈それが明るく灯ったらば 弥勒様をお迎えしよう〉
(囃子)しーやーぷー しーやーぷー
みーみんめー みーみんめー
ひーじんとー ひーじんとー
いーゆぬみー いーゆぬみー
(2)
東明がりば 墨習いが行きよん
〈日が昇ったら 学校に参ります〉
頭結てぃ給り 我親がなし
〈髪を結って下さいませ 私の親御様〉
(囃子)
(3)
大国の弥勒 我が島に往もち
〈大国の弥勒 私の島にもおいで下さい〉
御拡きぼせみそうり 弥勒世果報
〈そして広めて下さい 弥勒の太平の世「ゆがふ」を〉
(囃子)
(4)
道々の巷 唄歌てぃ遊ぶ
〈道々のそこかしこ みんなが唄を歌って遊ぶ〉
弥勒世の世果報 近くなたさ
〈弥勒の「世果報(豊穣な世の中)」が近くなったようだよ〉
(囃子)
歌詞は、明らかに「弥勒菩薩」を唄ったもの。一方、赤田町や八重山の「弥勒迎け」においては、弥勒ではなく、「布袋」の仮面が使用されています。さらには、お囃子の「しーやーぷー」以下は、「大黒」や「恵比寿」などの布袋以外の七福神を指しているとの説があります。何やら面白くなってきました。
この唄の謎を解くには、沖縄ではミルクさんと呼ばれる「弥勒菩薩」から見ていかなければなりません。
弥勒は、ゴータマ・シッタルダ(釈迦)の次にブッダ(悟りを啓いた人)となることが約束された菩薩(修行者)で、シッタルダの入滅後56億7千万年後の未来に姿を現わし、人々を救済すると言われています。天文学的には50億年後には太陽は燃え尽きてなくなっており、その前に膨張した太陽に地球が吸い込まれているため、地球もありません。
それはさておき、こういった仏の性格から、乱世にこの世に現れて「弥勒の世」を作り、人々を救うという一種のメシアニズムの対象となり、日本でも戦国時代に弥勒信仰が広がりました。弥勒を穀霊とし、弥勒の世を稲の豊穣な平和なユートピアとする信仰です。そして、弥勒は船で海の彼方からやって来ると信じられていました。
「赤田首里殿内」の3番、4番の世界に近づいてきましたね。
しかし、まだ大きな疑問が残っています。
弥勒といえば、小生も広隆寺や中宮寺で見て大いに感激しましたが、ほっそりして上品極まりない半跏像のイメージが強いです。その上品な弥勒が、沖縄では、なぜ太って品のない布袋に変わってしまったのでしょうか。
実は「布袋」が「弥勒」に変わったのは、沖縄だけではありません。
京都・宇治の禅寺 萬福寺は、毎月の「布袋祭り」で有名ですが、そのご本尊は「弥勒」の化身とされています。【写真7】また、中国の多くの寺院で見られる我々が呼ぶところの「布袋」は、現地では「弥勒」と呼ばれています。【写真8=上海にて】
どうやら、布袋が弥勒と呼ばれるようになったのは、中国がオリジナルのようです。
では、次に布袋について見て行きましょう。
布袋は、唐代の末期(10世紀初め頃)の明州(浙江省寧波)に実在した禅僧と言われています。本名は、釈契此(しゃくかいし)と言いますが、常に袋を背負っていたことから布袋という異名がつけられました。彼の行状や思想については、あまり良く分かっておらず、いくつかの逸話や伝説があるのみです。そのうちの最も大きな伝説が「布袋こそブッダの生まれ変わりの弥勒である。」というものです。
釈迦が入滅してからたった1400年しか経っていないけれど、唐代末期の乱世において、人々は56億年を待ちきれず、世の中を変える救世主を必要としたのではないでしょうか。彼の周りの者達が、おそらく偉大な禅僧であった布袋をブッダの生まれ変わりの弥勒と持ち上げた。それによって、ユートピア「弥勒の世」が訪れると信じたかったのではと推察します。以来、中国では布袋は弥勒になってしまったのです。
それが、沖縄に伝わり、弥勒の世=「世果報」を願う祭礼になり、童歌になり、少しだけ布袋に戻って他の七福神も入れなきゃとお囃子の「しーやーぷー」以下が付属したと思われます。
さて、時代は下って13世紀。
布袋が活躍した浙江省寧波にある禅寺、天童山景徳寺の門を一人の日本人禅僧がくぐりました。その名は「道元」。日本の曹洞宗の開祖です。
昨年道元を題材にした中村勘太郎主演の「ZEN」という映画がありました。これはなかなかの出来でしたが、次に紹介する景徳寺でのエピソードは盛り込まれていませんでした。
道元の景徳寺での修行記「宝慶記」には、道元の師「天童如浄」が語った最も重要な指南が記されています。すなわち『皮膚脱落し尽くす』と。
樹下に坐禅し、三衣一鉢で遊行したブッダの仏道には焼香・礼拝・念仏・修懺・看経はあろうはずはない。そのブッダが行じた純粋な仏道にまっすぐ帰る道が只管打坐(しかんだざ=ただひたすらに座禅をする)なのです。 ひたすら座禅に打ち込むことにより、自分の存在が消え、皮膚が脱落して人間と万物の境目が無くなり、万物の存在も無常であって、したがって元々何もなく、そう考えることによって、人生の苦悩から解放されると言う思想であります。(仏教の基本ですが…)
そして、こう言います。「人間は臭い皮袋であるに過ぎない欲望的存在であり、皮袋たる皮膚を脱落し尽くすことが肝要。」であると。
ほほう。「皮袋」は「布袋」を連想させませんか。禅寺景徳寺には、当然弥勒という名の布袋仏も祀られています。丸々太った布袋とは、五穀豊穣の象徴であると同時に、人間の欲望の象徴とも考えられます。奥の深い仏教のこと。「袋の中には何が入っているでしょう」と問いかけて、「何もありません。あってもなくても同じことです。」などいう禅問答をするための仏なのかも知れません。
帰国した道元。布袋のことには触れず、叡山や武士の迫害を受けながら、ひたすら「只管打坐」の道を説いていきます。しかし、只管打坐は、一般大衆にはなかなか難解です。時々平易な言葉で、彼の教えを述べています。そのうちの一つが、以下の名文(現代語訳)。禅宗の本山永平寺のパネルからです。
「はきものをそろえると心もそろう
心がそろうと はきものもそろう
ぬぐときに そろえておくと
はくときに 心がみだれない
だれかが みだしておいたら
だまって そろえておいてあげよう
そうすればきっと 世界中の人の心も
そろうでしょう」
Nちゃん【写真何枚か追加】の草履と「赤田首里殿内」から、弥勒や布袋や道元について考えていた小生なのでした。
おお!と言うことは、草履の「H」「D」とは、「布袋」と「道元」か?!
…そんなわけないわな。











年末のブログで「ネーネーズはもう見に行かない。」と書いたものの、前回訪沖時にこっそりと「島唄」に行ってしまいました。その次の日、たまたま歩さんのライブを見に行ったメンバーの真優子ちゃんが歩さんに「昨日猫太郎さんが来てたよ。」と言ったのを受け、歩さんが小生に「(もう見に行かないなんて言わないで)ネーネーズ共々よろしくお願いします。命ぬある間、とぅやいしゃびら(=どぅなんスンカニの歌詞)」と説教するように言ってくれましたので、小生も胸のつかえが取れたかのように、出かけたのでした。
ネーネーズの東京ライブはいつも満席です。一人で行くと、ステージ正面のテーブル席には座らせてくれなくて、楽屋前のカウンター席になります。
ふと足元を見ると、メンバーの草履が4足並んでいました。【写真6】それぞれの草履には、持ち主の名前が書かれています。「H」「D」と大きく書かれた草履は、消去法からNちゃんのものと思われます。HDとは一体何を意味するのでしょうか。小生思いつくのは、浜崎伝助(釣りバカ日誌)かハクション大魔王くらいのもので、何なのかさっぱり分かりません。そして、それ以上に気になったのは、その草履だけ、向きが揃ってなくて、片方が横を向いていることです。
今日はこの話を裏の軸として進めて行きたいと思います。
遠征と言うこともあって、メンバーのテンションはかなり高いです。明らかに、島唄での彼女達より元気があります。そしてMCも長いです。
しかし、MCのうちの2つのネタは、去年と一緒じゃないの!小生ライブ観戦メモを取っているから忘れませんよ!
一つは、卒業式の服装で歩いている女の子に、「卒業おめでとう」と声をかけたら「突然なんなの」という表情をされ、「ああここは東京なんだ」と思い知らされたという話。もう一つは、東京では駅で人とぶつかっても誰も謝らないのだけれど、珍しく謝った人の顔を見たらウチナーンチュの顔立ちをしていたという話です。
仕込みネタは常に更新しないとダメですな。
島唄では1ステージ1曲しばりの新譜ナンバーは全部で7曲と大奮発。
そのうちの1曲が「赤田首里殿内」です。この曲は、観客も振り付けを一緒に行ってライブの一体感が出るため、歩さんやおおまりさんもよく演奏するレパートリーです。しかし、ネーネーズの新譜に収められている「赤田首里殿内」は何とも珍妙なアレンジ。小生には信じられないセンスです。まあ彼女達のせいではないので、今日のところは不問としましょう。
この曲、首里赤田町において、琉球王朝時代から石川家を中心に行われてきた祭礼「弥勒迎け(ミルクうんけー)」で唄われていた童歌で、八重山で歌い継がれている弥勒節の一つと言われています。
先に歌詞を書きましょう。(wikipediaより抜粋転記)
(1)
赤田首里殿内 黄金灯籠提げてぃ
〈首里赤田村の首里殿内に 黄金に輝く灯籠を提げて〉
うりが灯がりば 弥勒御迎え
〈それが明るく灯ったらば 弥勒様をお迎えしよう〉
(囃子)しーやーぷー しーやーぷー
みーみんめー みーみんめー
ひーじんとー ひーじんとー
いーゆぬみー いーゆぬみー
(2)
東明がりば 墨習いが行きよん
〈日が昇ったら 学校に参ります〉
頭結てぃ給り 我親がなし
〈髪を結って下さいませ 私の親御様〉
(囃子)
(3)
大国の弥勒 我が島に往もち
〈大国の弥勒 私の島にもおいで下さい〉
御拡きぼせみそうり 弥勒世果報
〈そして広めて下さい 弥勒の太平の世「ゆがふ」を〉
(囃子)
(4)
道々の巷 唄歌てぃ遊ぶ
〈道々のそこかしこ みんなが唄を歌って遊ぶ〉
弥勒世の世果報 近くなたさ
〈弥勒の「世果報(豊穣な世の中)」が近くなったようだよ〉
(囃子)
歌詞は、明らかに「弥勒菩薩」を唄ったもの。一方、赤田町や八重山の「弥勒迎け」においては、弥勒ではなく、「布袋」の仮面が使用されています。さらには、お囃子の「しーやーぷー」以下は、「大黒」や「恵比寿」などの布袋以外の七福神を指しているとの説があります。何やら面白くなってきました。
この唄の謎を解くには、沖縄ではミルクさんと呼ばれる「弥勒菩薩」から見ていかなければなりません。
弥勒は、ゴータマ・シッタルダ(釈迦)の次にブッダ(悟りを啓いた人)となることが約束された菩薩(修行者)で、シッタルダの入滅後56億7千万年後の未来に姿を現わし、人々を救済すると言われています。天文学的には50億年後には太陽は燃え尽きてなくなっており、その前に膨張した太陽に地球が吸い込まれているため、地球もありません。
それはさておき、こういった仏の性格から、乱世にこの世に現れて「弥勒の世」を作り、人々を救うという一種のメシアニズムの対象となり、日本でも戦国時代に弥勒信仰が広がりました。弥勒を穀霊とし、弥勒の世を稲の豊穣な平和なユートピアとする信仰です。そして、弥勒は船で海の彼方からやって来ると信じられていました。
「赤田首里殿内」の3番、4番の世界に近づいてきましたね。
しかし、まだ大きな疑問が残っています。
弥勒といえば、小生も広隆寺や中宮寺で見て大いに感激しましたが、ほっそりして上品極まりない半跏像のイメージが強いです。その上品な弥勒が、沖縄では、なぜ太って品のない布袋に変わってしまったのでしょうか。
実は「布袋」が「弥勒」に変わったのは、沖縄だけではありません。
京都・宇治の禅寺 萬福寺は、毎月の「布袋祭り」で有名ですが、そのご本尊は「弥勒」の化身とされています。【写真7】また、中国の多くの寺院で見られる我々が呼ぶところの「布袋」は、現地では「弥勒」と呼ばれています。【写真8=上海にて】
どうやら、布袋が弥勒と呼ばれるようになったのは、中国がオリジナルのようです。
では、次に布袋について見て行きましょう。
布袋は、唐代の末期(10世紀初め頃)の明州(浙江省寧波)に実在した禅僧と言われています。本名は、釈契此(しゃくかいし)と言いますが、常に袋を背負っていたことから布袋という異名がつけられました。彼の行状や思想については、あまり良く分かっておらず、いくつかの逸話や伝説があるのみです。そのうちの最も大きな伝説が「布袋こそブッダの生まれ変わりの弥勒である。」というものです。
釈迦が入滅してからたった1400年しか経っていないけれど、唐代末期の乱世において、人々は56億年を待ちきれず、世の中を変える救世主を必要としたのではないでしょうか。彼の周りの者達が、おそらく偉大な禅僧であった布袋をブッダの生まれ変わりの弥勒と持ち上げた。それによって、ユートピア「弥勒の世」が訪れると信じたかったのではと推察します。以来、中国では布袋は弥勒になってしまったのです。
それが、沖縄に伝わり、弥勒の世=「世果報」を願う祭礼になり、童歌になり、少しだけ布袋に戻って他の七福神も入れなきゃとお囃子の「しーやーぷー」以下が付属したと思われます。
さて、時代は下って13世紀。
布袋が活躍した浙江省寧波にある禅寺、天童山景徳寺の門を一人の日本人禅僧がくぐりました。その名は「道元」。日本の曹洞宗の開祖です。
昨年道元を題材にした中村勘太郎主演の「ZEN」という映画がありました。これはなかなかの出来でしたが、次に紹介する景徳寺でのエピソードは盛り込まれていませんでした。
道元の景徳寺での修行記「宝慶記」には、道元の師「天童如浄」が語った最も重要な指南が記されています。すなわち『皮膚脱落し尽くす』と。
樹下に坐禅し、三衣一鉢で遊行したブッダの仏道には焼香・礼拝・念仏・修懺・看経はあろうはずはない。そのブッダが行じた純粋な仏道にまっすぐ帰る道が只管打坐(しかんだざ=ただひたすらに座禅をする)なのです。 ひたすら座禅に打ち込むことにより、自分の存在が消え、皮膚が脱落して人間と万物の境目が無くなり、万物の存在も無常であって、したがって元々何もなく、そう考えることによって、人生の苦悩から解放されると言う思想であります。(仏教の基本ですが…)
そして、こう言います。「人間は臭い皮袋であるに過ぎない欲望的存在であり、皮袋たる皮膚を脱落し尽くすことが肝要。」であると。
ほほう。「皮袋」は「布袋」を連想させませんか。禅寺景徳寺には、当然弥勒という名の布袋仏も祀られています。丸々太った布袋とは、五穀豊穣の象徴であると同時に、人間の欲望の象徴とも考えられます。奥の深い仏教のこと。「袋の中には何が入っているでしょう」と問いかけて、「何もありません。あってもなくても同じことです。」などいう禅問答をするための仏なのかも知れません。
帰国した道元。布袋のことには触れず、叡山や武士の迫害を受けながら、ひたすら「只管打坐」の道を説いていきます。しかし、只管打坐は、一般大衆にはなかなか難解です。時々平易な言葉で、彼の教えを述べています。そのうちの一つが、以下の名文(現代語訳)。禅宗の本山永平寺のパネルからです。
「はきものをそろえると心もそろう
心がそろうと はきものもそろう
ぬぐときに そろえておくと
はくときに 心がみだれない
だれかが みだしておいたら
だまって そろえておいてあげよう
そうすればきっと 世界中の人の心も
そろうでしょう」
Nちゃん【写真何枚か追加】の草履と「赤田首里殿内」から、弥勒や布袋や道元について考えていた小生なのでした。
おお!と言うことは、草履の「H」「D」とは、「布袋」と「道元」か?!
…そんなわけないわな。
Posted by 猫太郎 at 21:39│Comments(0)
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