てぃーだブログ › ネコ灰だらけ › 沖縄音楽アーティスト › 与那覇歩ライブレポ「唄と情けのパラダイス」

2010年12月05日

与那覇歩ライブレポ「唄と情けのパラダイス」

11月28日、関西ツアー初日の与那覇歩さんのライブに出向きました。【写真1~3】今回は、早田恵美さん、謝花綾乃さんのサポートメンバーも一緒です。
場所は京都の「大新」さん。元々京都の西の壬生(新撰組で有名)にあった沖縄居酒屋大新さん、商売繁盛につき、京都の繁華街の中心に進出してきました。今回はその「開店記念ライブ」でした。【写真4】
歩さん以外の出演者は、根間保(宮古)、下地健作(宮古)、椿(沖永良部、大阪)、大城謙(与那国)と、大新さんではおなじみのメンバーが揃いました。【写真5】
大新さん主催の沖縄音楽イベントは、1月、6月に続いて今年3回目。歩さんは3回とも出演の皆勤賞、小生も同じく観戦の皆勤賞です。

大新さんのある三条木屋町は、鴨川のすぐ近くです。西からショッピング街の河原町、飲み屋街の木屋町、一見さんお断りの高級料亭街の先斗(ポント)町と、特徴のある南北の通りが順番に並び、その東に鴨川が流れています。歩さんのブログの写真にも鴨川が写っていました。
鴨川といえば、小生はどうしても触れておきたいことがあります。

2005年公開の映画「パッチギ!」についてです。(これは歩さんのライブレポでないのか!!→まあちょっと待って下さいな。)
小生のここ10年間のベスト1映画は、実はこの「パッチギ!」です。
李鳳宇プロデューサーのあまりに北朝鮮寄りの政治スタンスや、筒井和幸監督の外し気味のギャグセンス等、鼻につく部分もありますが、それを補って余りある感動的な作品です。

物語は1968年。塩谷瞬演じる日本人「康介」と沢尻エリカ演じる在日朝鮮人「慶子(キョンジャ)」の国籍や差別の壁を超えた淡い恋。鴨川の東にある朝鮮人部落と西にある日本の街。両者を分かつように間に横たわる鴨川。
視点は一転して、この鴨川を、朝鮮半島を横断して流れる「イムジン川」に重ね合わせます。同じ民族なのに、大国(=おもに米ソ中。遠因は日本の植民地支配にもあり。)のエゴにより南北に分断された北朝鮮と韓国。その間にイムジン川が横たわっています。【写真6=小生撮影】
京都が生んだスーパーフォークグループ「フォーク・クルセダーズ」が歌う不朽の名曲にして、当時の放送禁止曲「イムジン川」。
康介がラジオ番組で歌うイムジン川をバックに、いくつかのエピソードがクライマックスを迎えて行きます。鴨川にかかる橋を自転車で駆け抜けるキョンジャ。【写真7=多分この橋では】
このクライマックスシーンは、何度見ても号泣してしまいます。
日本における在日韓国人、朝鮮人問題や、朝鮮半島の分断問題に向き合い、民族や国家を超える人間愛の可能性を謳歌する素晴らしい映画です。まだ見ていなかったら、是非一度ご鑑賞下さい。


え~と。与那覇歩さんのライブレポでした。ごめんなさい。
この日の観客は、国際通りのような一見の観光客ではなく、それなりに沖縄音楽の心得があるコアな人が中心です。目の前のお客さんに一番楽しんでもらうにはどういう組み立てをすべきかということを、歩さんはいつも計算しています。
手ごわいお客を相手に、この日のセットリストは、7曲全てが八重山の唄、うち5曲は与那国の唄でした。ミニ「どぅなんちまライブ」の様相に小生としては拍手喝采なのでした。

オープニングは厳かに「島々美しゃ」。
いいですね。歩さんの伸びやかでビブラートの効いた主旋律を、恵美さんが切なく「サーユイヤサー」と追いかけます。
グスク、御願所、福木、石垣、サバニ、アダンと順に出てくる単語に合わせて、八重山の風景や自然が目の前に広がって行きます。情景のみならず、八重山の歴史やそこに暮らす人たちの喜怒哀楽も。
そして、若い娘3人が歌う4番がハイライト。実にいい歌詞です。

 みやらび清しゃや
 紺地にミンサーよ
 もつれもつれたよ 細い恋の糸によ
 ホロリと落した 涙の 涙の清しゃよ

何があったのそこのみやらび(=若い娘)!涙を流したりして。
オジサンは力になれないが、頑張れ! さあ、涙を拭いて。
人生はそういうもんですよ。悲しいこともあれば楽しいこともある。
なんくるないさ。無責任でごめん!!

2曲目「どぅなんスンカニ」。
この曲は、歩さんの最大の十八番(おはこ)にして、与那国のアイデンティティそのものです。小生の以前のレポ「与那覇歩と『老人と海』」で取り上げたので、詳細は省略しますが、今回も凄い。恐ろしく凄いです。
16世紀の与那国にタイムスリップして、愛する人を引裂かれる悲しみを無理やり共有させられるのと同時に、現代においても、島の過疎化現象の中で、泣く泣く家族と離れて島を出て行ってしまう人達の悲しみが浮かび上がってきます。

3曲目にこれまた前回のレポで取り上げた新良幸人の「ファムレ唄」をはさんで、4曲目からは「どぅなんちま」「与那国エレジー」「与那国小唄」「フガラッサー」と、怒涛の与那国メドレー!!
与那国エレジーは初めて聴きましたが、かなりカッコいいです。エレジー(哀歌)というからには、結ばれない恋愛を描いた唄でしょうか。国の果ての与那国島のイメージが、哀歌の雰囲気を増幅しています。こういう曲調は歩さんのツボですね。綾乃さんのギターももの悲しいです。息が詰まるような緊張感が迫ってきます。

残りの3曲「どぅなんちま」「与那国小唄」「フガラッサー」は、与那国の地名や名所、名産を織り込みながら、島人の情けや生活を高らかに歌ったアップテンポのナンバーです。一例として、与那国小唄の歌詞を抜粋してみましょう。

 波にポッカリ浮く与那国の
 島はよい島 無尽の宝庫 
 唄と情けの 唄と情けのパラダイス
 サノサッサ ソレサッサ コレサッサ
 与那国良い島 情け島
 サノサッサ

 沖の波間に聞こえる唄は
 とれたカツオを 山程積んで
 帰る船子の 帰る船子の大漁唄
 サノサッサ ソレサッサ コレサッサ
 与那国島良い島 カツオ島
 サノサッサ

 一度おいでよ 与那国島へ
 五月デイゴの 真紅な花が 
 乙女心の 乙女心の胸に咲く
 サノサッサ ソレサッサ コレサッサ
 与那国良い島 乙女島
 サノサッサ

これもいいですね。生き生きとした情景です。この曲は歩さんがおじいさんから初めて教えてもらった島の唄なので、気合も入りまくりです。唄が命を持って輝きを放っています。
コブシを効かせて朗々と歌うスローな民謡が歩さんの得意とするところであろうと皆さん思いがちですが、何をおっしゃるウサギさん、アップテンポの曲も素晴らしいんですね。地声とファルセット気味の声の切り替えでリズム感を出すような誰にもマネのできない節回しで、歩さんは独自のノリを作って行きます。自然にシンコペアクセントになっていることも多く、時にはソウルシンガーよりもソウルフルです。
綾乃さんの正確なバッキング、恵美さんのお囃子と相まって、アップテンポな曲では、ご機嫌なエスニックグルーブが生み出されています。

小生、歩さんの歌うこれらの唄を聴きながら、あたかも与那国島旅行をしている気分になり、大満足なのでした。
しかし、「唄と情けのパラダイス」与那国島とて、他の沖縄の島々同様、苦渋の歴史を刻んでいることは言うまでもありません。これらの唄の歌詞に出てくる名所旧跡にも、悲しい過去がたくさんあります。
16世紀初頭に島人の人望を集めた女按司サンアイ・イソバは、石垣島の按司オヤケ・アカハチと同様に、首里王府の命令を受けた宮古島の豊見親軍に滅ぼされ、八重山全体が琉球王国の支配下に置かれることになりました。八重山の人々が沖縄(本島)や宮古に対して微妙な感情を持っているとしたら、この過去も一因と思われます。

首里王府の支配以降、与那国島では最高税率が81%という非人道的な高さの人頭税に苦しみ、それにまつわる秘話が多くあります。
一つは、「久部良割」と呼ばれる幅3mはあろうかという大きな岩の割れ目です。【写真8】妊婦をここに集め、この岩の割れ目を跳び越えさせ、無事跳び越えた者だけが、お腹の子供ともに生き延びることができました。一方で、何人もの妊婦が海に転落して命を落としたといいます。跳び越えることができた妊婦の中にも、跳び越えた衝撃で流産する者が少なからずいました。
もう一つは、「人升田(とぅんぐだ)」です。15~50歳までの男を非常召集して、この田に来れなかったり遅れた者を容赦なく殺すと言う施策でした。殺される対象は、当然のように病人や身障者が多かったと思われます。
17世紀初頭の薩摩侵攻以降は、このような首里王府による八重山支配の背後に、ヤマトの薩摩藩と江戸幕府の影があったあったことは言うまでもありません。

与那国島を含む八重山の苦しみは続きます。
年月を下って、1880年。明治政府は、日本が中国(清)で欧米並みの特権を得る見返りとして、宮古・八重山を中国領とする外交折衝を行っていました。この交渉は、前アメリカ大統領グラントの仲介もあって、調印寸前まで行きましたが、調印前に日清戦争が勃発し、実現することはありませんでした。
歴史の彩ですが、もしこの時調印されていれば、イムジン川で朝鮮半島が分割され、今なお砲撃が繰り返されるような悲劇が沖縄でも起こっていたかも知れません。与那国島は中国領で、歩さんは「プ」さんだったわけですね。(=彼女自身のギャグ)

皮肉なもので、日清戦争で逆に日本に割譲された台湾との交易で、与那国島の経済は、以後50年間に渡り、大いに潤うことになりました。
台湾は与那国島の魚介類や豚の一大市場となりました。また、人々の交流も盛んになり、与那国島から台湾に多くの人が出稼ぎに行く一方で、与那国島の商店には台湾人の店員が多くいて、台湾のお金が流通していたといいます。

為政者や大国の力によって、ある日突然住んでいた国がなくなったり、イムジン川のように理不尽な線が敷かれたりして、そこに住む人達が、涙を流し血を流す悲劇がしばしば起こって来ました。しかし、国家とか権力とかのラベルを剥がしてしまえば、同じ喜怒哀楽の中に生きる人間同士として、お互いの歴史や文化を認め合って、仲良くやって行くことは決して困難なことではないと思います。与那国島だけではなく、本来地球上どこもが「唄と情けのパラダイス」のはずなのです。

イベントの最後は、出演者全員での豊年音頭でした。
歩さんの唄にあおられて、会場全体が「ヨイ!ヨイ!ヨイ!ヨイ!」と絶叫しながら、狂気の乱舞を繰り広げました。【写真9】
沖縄戦を含む歴史問題、あるいは今もヤマトが沖縄に犠牲を強いる現状をしばし棚上げして、八重山、宮古、沖縄、そしてヤマトの人達が一体となった歓喜の叫び声は、鴨川を越えて京都の街に響き渡ったのでした。

与那覇歩ライブレポ「唄と情けのパラダイス」


与那覇歩ライブレポ「唄と情けのパラダイス」


与那覇歩ライブレポ「唄と情けのパラダイス」


与那覇歩ライブレポ「唄と情けのパラダイス」


与那覇歩ライブレポ「唄と情けのパラダイス」


与那覇歩ライブレポ「唄と情けのパラダイス」


与那覇歩ライブレポ「唄と情けのパラダイス」


与那覇歩ライブレポ「唄と情けのパラダイス」


与那覇歩ライブレポ「唄と情けのパラダイス」



同じカテゴリー(沖縄音楽アーティスト)の記事
尖閣でトニーそばを
尖閣でトニーそばを(2013-02-27 22:30)


 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。