与那覇歩ライブレポ「唄の道、芸の道」

猫太郎

2013年06月14日 00:10



5月25日に那覇に行った一番の目的は、パレット市民劇場で行われる予定だった韓国のパンソリ歌手「安淑善(アン・スクソン)の公演を見るためだった。彼女が劇中歌を歌った1993年の韓国映画「風の丘を越えて」も同時に上映されるという。

パンソリとは、一人の歌い手が、一人の太鼓奏者のみを伴って、多くの登場人物が出てくる物語を歌う韓国の伝統芸能である。

韓国の人間国宝である安淑善の公演は、日本では数年に一度あるかないかだし、20年前の映画のDVDはもとうに廃盤になって、アマゾンで1万円以上の値がついている。それらが同時に観られるのだ。しかも、今回の公演は、東京でも大阪でも開催されず、那覇で1回のみなので、小生はどうしても行きたかった。

実は、映画の方は十数年前にNHK教育TVでやっているのを見たことがある。かなり前のことで詳細な部分は記憶がおぼろげだが、とにかく壮絶な映画だった。

お互い血のつながりのない父と義理の子供達(姉弟)からなるパンソリ旅芸人一家。芸に厳格な父ユボンは、姉ソンファに歌を 弟ドンホに太鼓を徹底的に教え込もうとする。ソンファの喉は裂け血を噴き、バチを握るドンホの手はボロ雑巾のように擦り切れてしまう。

時は1960年代。
TVや新しい娯楽の台頭で伝統芸能は衰退し極貧の生活。古今東西あるように、旅芸人には一般市民から差別の視線が向けられる。それでも、父の残酷なまでの修行は続き、ドンホはついに父姉のもとを去ってしまう。
残されたソンファに、ユボンは
「芸の道は修行だけでは極められない。『恨』を会得しないと本当の芸に到達しない。」
と言う。

「恨」という感情・思考は、日本人には理解しがたい。
小生は、この映画(93年)より以前の80年代、NHK教育テレビでハングル講座が始まった頃に、番組の中でチョー・ヨンピルが歌う「恨五百年」という曲が流れていたのを聴いた時に、「恨み」という言葉から反日ソングかと思いドキッとしたこと経験がある。
しかし、「恨」は単なる恨みではないのだ。

wikipedeaにはこうある。
「朝鮮文化における思考様式の一つ。古田博司は朝鮮文化における恨(ハン)を『伝統規範からみて責任を他者に押し付けられない状況のもとで、階層型秩序で下位に置かれた不満の累積とその解消願望』と説明している。
単なる恨み辛みではなく、あこがれや悲哀や妄念など様々な複雑な感情をあらわすものであり(中略)、形成の裏には、時の王権や両班による苛斂誅求を極めた支配や、過去より幾度となく異民族による侵略・屈服・服従を余儀なくされ続けた長い抑圧と屈辱の歴史があると言われる。」

日本の植民地支配まで含めた長い歴史の中で培われた複雑な民族感情であることを承知の上で、乱暴に一言でまとめると
「恨」とは「自分ではどうしようもない人生の苦しみ」といった感情ではないかと思う。

「恨」の感情を会得させるために、父ユボンは娘ソンファに毒を飲ませ、彼女を失明させてしまう。
歌の道を極めるためのあまりに悲惨な蛮行。
父からうけた仕打ちに、ソンファは「どうしようもない人生の苦しみ」を知ったのであった。

何年かして、父の死を風の便りに聴いた弟ドンホは、姉ソンファを探しに旅に出る。そして盲目のソンファに再会し、自分のことは名乗らず、二人でパリソンの演奏を始めることになる。
想像を絶する過酷な練習の中で叩き込まれた技術と表現力。そして、苦労に苦労を重ねた二人の心身の底から湧き上がる「恨」の感情。この場面は凄すぎる。
 
 なんという演奏力。
 なんという緊張感。
 なんという悲壮感。
 なんという絶望感。
 そして悟りにも似た開放感。
 感動以外の何ものでもない。

まさにコリアンブルース。
この映画において吹き替えでパンソリを歌っていたのが、この日那覇で公演する予定だった安淑善なのだ。
この日のフライヤーにはこういう言葉が並ぶ。

 魂の声
 韓国伝統歌唱パンソリ
 あふれ出る生命力
 当代最高峰の歌姫が贈る韓国伝統芸能の粋


小生ワクワクしながら1時間前にリウボウの7階にあるパレット市民劇場に出かけた。エレベータから何回か扉を抜け通路を曲がり、ようやく市民劇場にたどり着くと、そこにはショッキングな貼り紙があった。

『本日の催し物は主催者の都合により中止になりました。』


小生にわかには納得できず、奥の事務所まで乗り込んだ。
「10日前に確認の電話をして、わざわざこのために東京から来たんですよ。すごく楽しみにしてたのに、どういうことですか。」
「すみません。1週間前にキャンセルの連絡が入りました。安淑善さんのご都合が他と重なってしまったみたいです。」
「せめて映画だけでも上映して下さい。」
「そういうわけには…」
事務の女性と数分間話をしたが、苦情を申し立てても公演が行われるわけでもなく、小生はガックリと肩を落とし会場を後にした。


やむなく、1時間に1本のバスに乗って、南風原文化センターで開催されていた「屈辱の日展」を見に行った。今回はこのことは書かないが、これは沖縄における「恨」だなどと思いながら沈痛な思いで那覇に戻った。






夕方からお決まりの与那覇歩ライブである。
ライブハウスかなぐすくの入り口まで来ると、本日2度目の無情な貼り紙。

『本日は21時半までは貸切です。一般のお客さんは22時から入場できます。』

念のため中に入って、
「一人なんだけど、カウンターでも厨房でも楽屋でもいいから入れない?」
と若いスタッフに尋ねてみたが、
「カウンターも厨房も楽屋も一杯なんです。」
との返答。ついてない一日だ。

2度あることは3度あるかもとひやひやしながらも、22時にようやく入店できた。
2ヶ月ぶりの与那覇歩。
今日は余裕のあるふくよかな声だ。
恵まれた才能があり、強い意思があり、ストイックに鍛錬をつんできたからこそ、今の彼女がある。

芭蕉布や安里屋ユンタのような定番ソングを歌っても、他の若手とは聞かせるものが全然違うのだ。国際通りだからと言って、観光客相手だからと言って、通り一遍歌っていたらいいと言うものではない。客に対するミュージシャンとしての責任感が彼女の歌からはビシジシ聞こえて来るのである。
酔いが心地良くなってきた。

この日のステージでは、
「私はガラスのハートです。」とか、
「傷つきやすいんです。」
と何度かMCで言っているのが気になった。
酔ってはいたが、小生は何かあるなと感じた。

過去のMCでも歩さんの苦労話を何度か聞かされた。
3歳で与那国の祖父母宅に預けられたこと。
ネーネーズをやめる時、いろんな葛藤があったこと。

この日も「小さい時は両親がいなくて。」と屈託なく語った彼女。祖父母の愛を受けて育ったとは言え、小さい心に大きな傷を負っていたのではないかと思う。
18歳で音楽の道へ進んでからも、決して順風満帆ではなく、努力と鍛錬で唄と三線の腕を磨いてきた。苦労を重ねてソロとして独立。今でも回りの人に助けられながらも、一人で苦労をしている。

壮絶な修行のあげく、父ユボンに毒を盛られ、人生の苦しみを知ったソンファ。ユボンと比較しては双方に申し訳なしが、歩さんの唄や芸にも苦労の重みを感じ取ることができる。

最後の豊年音頭で、歩さんが太鼓を叩くのを聞いて、びっくりした。太鼓についても相当な練習を積んできたに違いないのだ。
バチさばきのしなやかさと力強さ。
リズムの強烈なうねり。
一朝一夕でここまで叩けまい。そういえば彼女の師匠の一人の吉田康子さんは太鼓の名手だ。歩さんの鍛錬された太鼓は吉田康子直伝の芸かも知れないと思った。


終わった後に、「悩みがあるみたいだけど何かあったの。」と訊いてみた。
歩さんは後輩へのアドバイスで悩んでいると言う。
「中途半端な状態で舞台に立とうとしているのはお客に失礼だ」と仲の良かった後輩を厳しく叱責しているらしい。

まさに、映画の父ユボンが子供達に教えた芸の道である。
血を吐くまで歌い、三線の弦で指の皮が裂けるくらい練習を重ね、初めて客の前に立つ資格がある。一朝一夕の芸でお客から金を取ってはいけないのである。
そして、人生の苦労を知り、人の気持ちを知ることにより、芸に深みが増し、人々の魂を揺さぶることができる。

歩さんは「思いやり」から後輩に指導したと言った。いやいや、小生は思いやりでなくていいと思った。修行の甘い芸、深みのない芸に、客は続けてお金を払わない。

と思ったが、もう一度否定したくなった。
かわいい後輩に、唄の道、芸の道に対する徹底的な厳しさを教えたいという思いこそが、彼女なりの思いやりなのだと。


安淑善の公演と映画「風の丘を越えて」を見そこねがっかりしていたが、安淑善に勝るとも劣らない与那覇歩の魂の唄を聴き、その唄の背後にある芸に対するユボンのようなストイックで激しい姿勢を知って、小生は一日の終わりにようやく晴れ晴れとした気分になった。










関連記事