2012年05月07日
フクシマ「絶望のクレッシェンド」
大型連休をフルに使って、携帯の電波が届かないトカラ列島を旅してきた猫太郎です。トカラのレポートはまた後日に譲るとして、この間に日本で起きた大きな事件について書くことにしましょう。
5月6日未明、北海道の泊原発が停まったことで、日本における稼動可能な原発50基全てが停止しました。
1970年、「人類の進歩と調和」を掲げた大阪万博の会場に向けて敦賀原発から送電が開始されて以来、日本の電力から原発がなくなるのは、42年ぶりとのことです。
この期に及んで「夏場の需要期が乗り切れない。」とか「経済成長のためには原発は必要。」とか言った識者や街の人々の声が新聞には載っています。
こういった人々は、つい最近までは「原発を停めたら江戸時代に逆戻り」などと言っていたわけですが、そうでもないことがわかると、別の論理を持ち出しているように思われます。
原発要否の議論では、安全性が100%確保されるのかどうかが最も重視されるべきで、それが崩壊した今(前から疑問でしたが)、脱原発を選択せざるを得ないというのが明白な結論です。
それでは、電力の確保をどうするのかというのが次の議論になります。太陽光、風力、地熱、バイオマス発電などの再生可能エネルギーが開発されつつありますが、一方で発電コストの高さや別の面での環境破壊が問題になっています。
例えば、太陽光発電では、これまでかなりの割合で地表から宇宙空間に反射していた光エネルギーを電気エネルギーに変えて地上に留めるため、かえって地球温暖化につながるという見方もあり、風力発電においては、低周波騒音や海山の景観破壊の問題があります。(それでも、放射能汚染よりは、かなりましですが。)
小生が疑問に思うのは、電力やエネルギーに関する議論がなお「右肩上がりの経済成長」を前提になされていることです。
日本の電力の30%を担っていた原発が停止したら、その分を何が何でも火力発電で補おうとするのではなく、経済活動の方を30%だけ小さくすることを考えれば、残されたインフラでも何も無理は起きないはずです。無駄だらけの生活の中で、少し気を使って省エネすれば、決して達成不能な数字ではありません。
世界全体を見渡せば、ウランや石油を始めとする資源の枯渇が叫ばれ始め、食料も確保が年々厳しくなっています。日本を含む先進国の人々が、率先して生活のダウンサイジングを図らなければ、地球はこの先60数億人の人口を養うことはできないでしょう。
大阪万博の高度成長の時代とはもはや時代が違います。
「人類の進歩と調和」の「進歩」とは、当時の認識である「経済の進歩」ではなく、今後は「心の豊かさの進歩」であると、読み替えるべきです。
せっかくの機会なので、書く暇がなくボツにしていた3月末の福島訪問の話を書きたいと思います。
本ブログでもすっかりシリーズ化している福島ネタ。震災・原発事故から5度目の福島訪問になりました。今回は福島市ではなく、原発から50Km(も)離れた内陸の郡山市を訪問しました。30数万人の人口をかかえ東北では仙台市に次ぐ2番目の大都市です。
ホテルで自転車を借りて街を回ってみると、あちこちに自動の放射線計が設置してあったり、除染前後の放射線量が書かれたホワイトボードが設置されているのが目に留まりました。
除染前の線量が軒並み2.3μSv(シーベルト)/hを越えており、年間被ばく線量に計算し直すと、20mSv以上に相当します。
これは、計画的避難地域の指定基準を超える数値であり、また人の一生の間に許容されている被ばく線量(100mSv)を5年間以下で浴びてしまう数値に相当します。
敦賀原電が送電を開始した大阪万博の頃の上限値であった年間50μSv(μはmの千分の一)と比較すると、実にその数百倍の放射線量です。
除染後はこの数値を大きく下回っているとは言え、除染できたのは街中の限られた範囲だということを考えれば、30万人以上が住むこの街の多くのエリアには、あるいは一歩野山に入れば、大量の放射線が飛び交っていると言っても過言ではありません。
大熊町や双葉町などのもっと放射線量の多い地域から避難してくる人口の流入はあるものの、それ以上に街を出て行く人が多く、集団登校する小学生の列が数分の一に短くなったと食堂のおばさんが嘆いていました。
今日の中日新聞ネット版にも、郡山市内の20を越える小中学校の校庭で、年間20mSvを越える「ホットスポット」があると掲載されています。小中学校の校庭などは、真っ先に除染作業をしたにも関わらずです。
少し前の別の報道では、水素爆発を起こした2号機の格納容器内は、30~70Svという通常の格納容器内の10万倍以上の猛烈な放射線があることがわかりました。この線量を浴びれば人間は8分間で死に至ります。このため、廃炉作業に着手できず、長期にわたり穴の開いたまま放置するしかないとも言われています。
水素爆発のため格納容器は密閉性が失われており、福島第一原発全体で、1時間当たり6000千万ベクレルの放射性物質が大気中に放出され続けています。(数字は昨年12月時点)
昼間は市内を回り、夜はいつものように近くのライブハウスに足を運びました。
「Lady Brown」という地元のバンドが、親交のあったバンドやシンガー数組を前座に、解散ライブをやっていました。主要メンバーであるKb&コーラスの佐々木理江さんが結婚のため脱退するので、解散するとのこと。
前座の中では、友川かずきや三上寛といった東北の絶叫シンガーの流れを汲む女性ソロシンガーの「ロマンティックメルヘン」が格段に良かったです。
【ロマンティックメルヘン】
【Lady brown】
【佐々木理江さん】
一方、主役のLady Brownは、良質なJ-POPを聞かせるなかなかの実力派バンドでした。
ライブ終盤、震災&原発事故を受けて作ったというミディアムテンポのロックバラード「Wish from here」を披露してくれました。
リーダーである遠藤栄二氏のアコギとボーカルから静かに始まった曲は、サビに入りパワフルなドラムを中心に一気に盛り上がって行きます。
遠藤氏のハイトーンボーカル。追いかけ重なる理江さんのコーラス。
「今からまた歩き出す笑顔。
空から、ほら、眩しいほどの光が降りる。
今からまた作り出す笑顔。
君の手、僕の手、互いにつなぎあって。」
「心が導かれてくように、
君と一緒に手を取り合って
大地に一輪ずつ花を植えてく。」
そして、クレッシェンド(=だんだん大きくなって)のリフレイン。
「響け、響け、みんなの願い!」
「届け、届け、みんなの想い!」
この後の曲でついに大泣きした理江さん。
ここ福島で結婚生活をスタートするにあたっての希望と不安が入り混じった思いが、理想を描きながらも、なお不安を抱き不特定多数の聴衆にある種の懇願を発信する歌詞にオーバーラップして行きます。
歌詞の「願い」「想い」とは、愛する人と安心で安全な生活をして行きたいという切なる祈り。
少しばかり便利であろう生活より、心安らかで平和な人生の方が大切だという祈り。
ここより東のもっと原発に近い地域では、震災や津波は免れても、放射能のため、故郷を追われ、職を失くした人達が何万人といます。農業ができず、酪農ができず、漁業ができず、仕事ができず、自殺した人も数多くいます。
理江さんの涙に誘われ、その心中を思い、あるいは、もっと苦労している福島の人々のことを思い、小生も思わず涙してしまいました。
翌日は、郡山駅前のBig-iという高層ビルに行ってみました。その入り口には、偶然にも昨日の歌詞と同じ「届け想い」と大きく書かれた高さ3mほどの寄せ書きが貼ってありました。
このビルの20~24階には、別名「スペースパーク」と呼ばれる郡山市ふれあい科学館があります。今年1月の福島新報に、中立的な財団を経由して東電から30億円の寄付があったとすっぱ抜かれたいわく付きの施設です。
小生そこに入場してみました。
主に宇宙をテーマにした学習と遊びの場になっており、多くの親子連れで賑わっていました。
東電がなぜここにこっそりと30億円もの投資をしたのか、答えは明白です。
例えば、二つのジオラマが設置されていました。汽車時代の閑散とした郡山駅周辺のものと、電気が通じ電車になってからの発展して賑わう郡山駅周辺のもの。電線や点灯する照明が強調され、電気と共に文明が発展したのだとの印象を子供達に植え付けます。
階下の体験コーナーでは、「発電ロボットを使ってチームでバトルをしよう。」とのイベントが催されていました。
なぜ、わざわざ「発電ロボット」なのか。
ここでも、未来の象徴であるロボットや宇宙開発に電気が不可欠との印象を子供達に刷り込む目的が見え隠れします。
「過去も電気のおかげで発展した。未来に向かっても、電気がもっと必要だ。」と暗示をかけるための施設だからこそ、東電は惜しみもなく投資したのです。
宇宙への興味や好奇心を養うには、むしろ街の照明を防犯上必要な最小限に抑えて、無数に瞬く星や、空を横断する銀河や、その間に深く横たわる漆黒の闇が街からも見えるようにして、それを子供達が見上げ、「宇宙ってすごいなあ。」「あそこには何があるのだろう。」と感動し想像力を働かせる方が、教育上よっぽど重要だと小生は思います。
何が発電ロボットだ! ホントに懲りない連中です。
東京に戻り、夜の渋谷の街に行くと、そこは相も変わらず、光の渦と人の波でした。
東京の空虚な繁栄を支えてきた福島が、言葉を裏返せば東京のために破壊されたのに、何事もなかったかのように、同じ街の風景と人々の活動が繰り返されていました。
世紀の大事件であるフクシマの後、何の反省も見られず、今必要な生活のダウンサイジングの意識などこの街には微塵もないと小生は悟りました。
「届け、届け、みんなの想い」という理江さんのシャウトが頭の中でクレッシェンドするとともに、絶望的な思いもクレッシェンドして行きました。
2012年04月24日
与那覇歩ライブレポ「ミサイルと卒業のコントラスト」
4月13日4ヶ月ぶりに沖縄に行きました。
仕事関係者からも音楽関係者からも、はたまたホテルのフロントのオネエさんからも、異口同音に同じ挨拶、「お久しぶりです」。
その通りなんですが、小生はこう見えて、この数ヶ月間大変忙しいのですよ。ブログのインターバルも開きっぱなしです。お久しぶりです。
朝一のフライトで那覇空港に着き、ゆいレールを県庁前駅で降りると、交差点で琉球新報の号外が配られていました。号外を受け取る通行人を撮るNHKのテレビカメラやインタビュアーもいました。
小生も号外を受け取り、モスバーガーに入って紙面を見ると「北朝鮮ミサイル発射失敗」の見出しが目に飛び込んできました。
やれやれです。
「何万分の一か知らないが、ものすごく低い確率のことで大騒ぎして何事なの。」
というのが小生の率直な感想です。
連日のニュースを見ていると、これほどのバカ騒ぎは、「だから基地が必要だ」とか、「だからミサイルの配備が必要だ」とか、「だから軍事費の増大が必要だ」とかいう錯覚を沖縄県民を始め日本国民に植えつけるのが真の目的なのではと勘ぐってしまいます。
号外を読み終わり、今度は店内に置いてある琉球新報の朝刊を持ってくると、号外と同じ字体で一面に「オスプレイ墜落」の見出しがありました。
モロッコでのことですが、人ごとではありません。
ヘリコプターと飛行機の両方の形状と特徴をあわせ持ったこの航空機は、試作段階から世界のあちこちで墜落事故を起こし、別名「空飛ぶ棺桶」、「未亡人製造機(=パイロットが死んでしまうので)」などと呼ばれています。
人ごとではないと言ったのは、オスプレイが今年普天間飛行場に12機配備され、最終的には24機配備される計画があるからです。
周辺の人口密度が高く世界で最も危険な飛行場に、世界で最も危険な飛行機を配備しようものなら、それこそ北朝鮮のミサイルの数万倍も危険な事態といっても過言ではないでしょう。
号外と朝刊、二つの琉球新報を読んで、小生は暗い気持ちでその日の仕事に向かったのでした。
翌日ホテルのバイクを借り、もう何度も行っている南部戦跡を巡り、ついでに自衛隊の知念駐屯地にも足を伸ばしました。ここには、万一の場合に備え北朝鮮のミサイルを迎撃するために急遽運び込まれたPAC3(パトリオットミサイル)が配備されています。ミサイルは見えませんでしたが、ミサイルを警護する若い自衛官達の姿を見ることができました。正門の前を何度もバイクで通ったり、林の中のフェンスの近くをうろうろしている小生を見つけた職務に忠実な自衛官が無線連絡をし始めたのを見て、小生は退散しました。(別に法律違反は何もしてませんが。)
小雨の中ホテルに戻ってシャワーを浴びて、いざ与那覇歩ライブへ。ライブハウス金城に一番乗りして、泡盛を飲んで出来上がっていると、歩さん登場。
ここ2日間で20回目の「お久しぶりです。」
彼女がネーネーズを辞めてソロで復帰してからの関西ライブには、2010年1月の1回目からか全て足を運んで来たのに、ここ2回は行けませんでした。ごめんなさい。お久しぶりです。
少しだけ立ち話をすると、歩さんがソロになってからバックでギターを務めて来た謝花綾乃さんが今月でサポートを卒業して、ソロ活動に専念するとのこと。
びっくりすると共に、歩さんが突然ネーネーズを辞めた時のことを思い出しました。2009年のことです。春にメンバー二人が入れ替わったヤングネーネーズを東京で見て、盆休みに那覇に見に来たら、
「歩ネーは、ソロ活動をするため先月末で卒業しました。」
と、上原渚さんのMC。かつてはその横に歩さんが立っていました。
通常行われる卒業ライブやツアーもなしとのこと。あれほどの若手唄者に何があったのかずっと気にしていると、半年ほど経ってソロとしての復活ライブを京都で見ることができました。そしてその2~3ヶ月後に、ギターの謝花歩さんとお囃子の早田恵美さんがサポートで合流。現在まで続く形が出来ました。
歩さんがなぜネーネーズを辞めたのか、詳しくは知りませんが、それに関連すると思われるMCが時々なされます。
「決められたステージで毎日与えられた唄を歌うより、ソロになって島の唄や自分自身を表現できる唄を歌いたかった。」
つらいこともそれなりにあったでしょうが、それよりも自分の夢や希望を追い求めて、リスクを覚悟である意味安定した唄者の立場を捨てる決意をしたのでしょう。
綾乃さんも、歩さんのサポートとして数々の勉強や、日々楽しい経験をしているに違いありません。しかし、民謡よりも自分が追及するポップスの道に専念したくて、2年間勤めた歩さんのサポートを卒業することにしたのでしょう。思い切った心意気に胸を打たれます。
「今日は特に綾乃さんのギターをしっかり聴かなくちゃ」と小生は気合を入れ直しました。
ライブが始まりました。
4ヶ月ぶりに聴く歩節。
実力+個性。いつものように怒涛の迫力とガラス細工のような技巧です。凄い、凄い!
それを支えるエモーショナルなギターとコーラスワーク。感心、感心!
綾乃さんのギターのプレーは、この2年間でかなり上達したと思います。
彼女のブログを見ると、3度の飯よりギターが好きという感じです。「好きこそ物の上手なれ」ですね。
特にアルペジオが絶品。
タメと抑揚、ここぞという場面でのピンポイントのアクセント。かなりのセンスです。
ピックをくわえる姿や、イコライザーやピックアップをこまめに切り替える姿も印象的。一生懸命さとギターにかける情熱が伝わって来ます。
カッティングやリードや複合技はほとんどなくて、基本はアルペジオとストロークだけですが、ストレートとスライダーしかなくても絶妙なコントロールで打者を抑えて行くピッチャーのように、絶妙に聴衆の心を捕らえて行きます。
「アンディ」と名づけたTakamineのギターとの相性も抜群。綾乃さんの気持ちのこもったプレーを、アンディが豊かな音色で忠実に奏でます。
「涙そうそう」や「花」の切ないアルペジオ。
「ファムレウタ」や「童神」のメリハリの利いたアクセントとブレイク。
「朝花」の大きなうねり。
心の琴線に触れるプレーをするいいギタリストですわ。
ギターを弾きながらのコーラスも秀逸です。今はどちらかというと恵美さんの比重が高まってはいますが、綾乃さんがコーラスに加わると音がぶ厚いです。
ファムレウタでは下メロを担当。眉間にシワを寄せて低い声を出す綾乃さん。力強いメロの迫力が一段と増します。
この日は披露しませんでしたが、例えば「与那国小唄」のようなアップテンポな曲でのシンコペの合いの手もご機嫌です。リズム感がいいのでしょうね。
綾乃さんのギターとコーラスがなくなると寂しくなるなと思う反面、歩さんがかつて思ったように、綾乃さんの胸の中で大きくなった自分の表現をダイレクトに聴衆に伝えたい情熱を止めることはできません。
夢を追い求めて卒業する綾乃さんを祝福してあげたいと思います。
2nd setまで彼女達の歌と演奏を聴いて、もう一人6月に卒業する人という人を思い出しました。歩さんが卒業した後、ネーネーズを支えてきたすぐ下の後輩、上原渚さんです。
小生のブログでネーネーズの記事が炎上して以来(ヒステリックなご批判は全て消去させてもらってますが)、1年以上ネーネーズを見ていませんでしたが、それまでは金城と同じくらい島唄に足を運んでいました。
歩さん卒業後、ネーネーズでの小生のお気に入りは、上原渚さんでした。他のメンバーが、器用でそこそこ上手いけれど、こじんまりまとまってしまっているのに対し(また炎上か?!)、渚さんは、オールマイティではないけれど、ブルージーなハスキーボイスを持ったオジサン受けする個性派の唄者でした。MCもオジサン受けします。
歩さん卒業後のネーネーズを支えた渚さんと、ソロになってからの歩さんを支えた綾乃さんが、同時期に卒業するとは、奇遇なものを感じました。
そう思うと、今後ネーネーズとして会うことがないかもしれない渚さんに、今日挨拶をしておきたくなりました。
歩さんと綾乃さんに、「すみませんが、また関西ライブに行きますので、今日はこれにて失礼します。」と行って、小生は島唄の3rd setへと走りました。
このsetは、「テーゲー」や「余所の人」など小生の好きなネーネーズのナンバーが目白押しでした。
そして、なんとラッキーなことでしょう!
渚さんがソロをとる曲はネーネーズの曲の中でたった3曲しかないのに、その中でも最もソロパートの長い「国頭サバクイ」を最後の曲として歌ってくれたのです。
やっぱりカッコいいじゃない!渚ちゃん、今後ブルースかソウルシンガーになったらいいのに!
ライブが終わり、他のお客さんが帰るのを待って、出口付近で渚さんと話をしました。
本日21回目の「お久しぶりです!」
ホントにお久しぶり。
「これからどうするの?」と訊くと、
「唄は続けますけど、○○になりたいんです。」
「何年間もネーネーズで歌ってきて、オジサン(=小生)みたいなファンもいっぱいいるのに、○○になるってどういうことよ。」
「○○になるにが昔からの夢なんですよ。」
屈託のない笑顔。
何も偽っていない心からの笑顔。
軽いカルチャーショックを受けました。
ある意味順調に回っている立場、生活を捨てて、夢を追い求め人生のチャレンジをする若者達。
歩さんも、綾乃さんも、渚さんも。
小生などその歳(24~25歳)の頃から棺おけに片足を突っ込んで惰性で生きているようなものなのに。
1時間前に聴いた歩さんのMCがフラッシュバックしました。
「沖縄の綺麗な自然が、沖縄の言葉を、唄を、人間を作ってきました。」
沖縄の自然風土が、夢を追い続けチェレンジする若者を作り出しているかどうかは定かではありません。
それに続いて歩さんが喋ったMCも小生の脳裏に鮮やかに蘇りました。
「しかし、皆さんが見て来た綺麗な自然の沖縄、観光の沖縄は、戦争を体験してきたオジイ、オバアの悲しみの上に成り立っています。どうか沖縄の全てを知ってほしいと思います。」
20万人が苦しみ、悲しみの中で死んで行った沖縄の地上戦。
沖縄の歴史を語る上で忘れてはいけない忌まわしい出来事でしたが、その悲しみの連鎖は場所を変え今も続いているのです。ここ沖縄の基地が関係して、イラクでアフガンで、今日も死者を生み、悲しむ人を生む戦争が続いています。
石油資源がなくアメリカにとってメリットがないため絶対に戦争を起こすはずがないと思われる北朝鮮のヘナチョコミサイル一発で、意図的に大騒ぎして、軍備の強化をあおり、辺野古に軍港を備えた新基地を作る計画を加速する動きが出て来るに違いありません。普天間に配備されるオスプレイも、「危険だから、やはり辺野古に持って行った方がいい。」という論理にすり替えられるかも知れません。
そして、基地の代償としての「思いやり予算」による公共投資で、海岸線ややんばるの森などの沖縄の自然がこれからも破壊されて行くでしょう。
ここ沖縄で自分の夢を追い求めて、今の境遇を卒業して行く若者達の純粋さと眩しさ。それに対して、政治を担う大人達の手垢にまみれた陰謀と策略の醜さ。そのコントラストがあまりに大き過ぎて、目眩すら覚えた久しぶりの沖縄でした。
2012年03月31日
喜界や良い島
忙しい合間を縫って、たった2日間だけ、決め打ちで喜界島に行って来ました。喜界島には小生を魅了する2つの要素があります。一つは城久遺跡。もう一つは俊寛です。
琉球王国が成立するはるか以前の9世紀からヤマトの出先機関が置かれ、南西諸島や中国との交易の窓口であったと推測される喜界島。城久(グスク)という名前を含めて、琉球王国の歴史を探求する上でも、一度現地に赴いて探索する必要がありました。
鹿ケ谷の陰謀で平家打倒を企て喜界島へ流刑に処された俊寛は、日本の芸能の源流を探る上で重要な平家物語の主人公の一人として、その足跡を抑えておく必要を感じていました。
現地に行って初めて気がつくこと、ビックリすること、熟考できることが多々あるため、バカなことをしてるなあと自嘲しながらも、小生は遠くまで足を運ぶのです。
しかし、今回は城久遺跡についても俊寛についても書きません。喜界島でそれ以上のテーマに遭遇したからです。
台風で数少ない案内板が全て飛ばされてしまったという城久遺跡の発掘場所を探して、小生はサトウキビ畑や山の中の道なき道を 軽自動車で2~3時間彷徨いました。
そして、サトウキビ畑の行き止まりで出くわしたのが、自衛隊のレーダー基地でした。
日頃の勉強不足で、恥ずかしながら、喜界島に自衛隊のレーダー基地があるとは知りませんでした。そうと知ったからには、小生の反基地、反戦の精神に根ざす別の好奇心が頭をもたげて来ました。高台に移動して全景を見渡しながら、iPhoneを駆使して調査を開始したのでした。
正式には、防衛庁の通信傍受施設「喜界島通信所」というようです。20本の屹立するアンテナが直径200mの円形に配されて、巨大な円形レーダーを形成しています。
通称「象のオリ」。
かつて沖縄読谷村にあった楚辺通信所の「象のオリ」と違って、アンテナ間に電線が張り巡らされていないため、実際に象を入れたら逃げてしまいます。
1985年に計画が発表され、全島の激しい反対運動がありましたが、1991年に地元が同意。1997年に着工し2006年に運用が開始されました。以来、日夜、中国、ロシア、北朝鮮等の無線を傍受しているようです。
2006年の時点で建設・整備費は300億円。以降も毎年膨大な維持整備費がかかっていることでしょう。
膨大なお金を使って、いったいどれほどの戦争抑止力があるのか、喜界島の人達のみならず、税金を払っている島外の我々にもしっかり明示してもらいたいものです。
少なくとも、一たび戦争が起これば、このような軍事施設が真っ先に標的になります。
この数時間前に、小生は喜界空港がある中里地区の戦跡を見て回ってました。喜界空港は、戦時中は海軍航空隊の飛行場として利用されていました。
鹿児島から飛び立った特攻隊の中継基地としても知られています。ここから飛び立った若者の多くはそのまま帰らぬ人となりました。地元の子供達が出発の際、パイロットに手渡したという「特攻花」が今も飛行場周辺で風に揺れています。
当時の戦闘指揮所を見に行きました。地下室の入り口に爆撃の跡が残っており、この爆撃の際に二人の兵士がなくなったそうです。
日本軍の基地があるゆえ、中里地区は米軍の激しい砲撃や空襲にさらされ、基地周辺の140戸全戸が被災し、兵士以外にも多くの方が亡くなりました。
また、1945年8月15日の終戦が遅れれば、米軍は18万3000人の太平洋戦争中最大の兵力で喜界島に上陸し、本土攻撃への足場を築く計画であったと言われています。そうなれば、喜界島は、沖縄に続く第二の地上戦の島となり、全島でさらに大きな惨事が繰り広げられたと予想されます。
それもこれも基地があるゆえのことであり、この論理は現代にも当てはまります。実際に湾岸戦争では、真っ先に通信基地が攻撃されました。
さらに調査を進めると、興味深いことが分かってきました。
島を挙げての反対運動のさ中、1991年に一部地区の住民が「水道(灌漑)設備」の整備を交換条件に、通信基地誘致賛成に転じたのです。
喜界島は、他の奄美・沖縄の島々と同様に珊瑚礁石灰岩からなる島で、多雨にも関わらず雨水は地表に留まらず、すぐに地下に浸透し、海に流出してしまいます。「水道(灌漑)設備」のニーズは当然あったと思われます。
しかし、権力の構図を知っている者にとっては、これは、「大義名分のでっち上げ」=「とってつけたような言い訳」に過ぎないと映ります。原発誘致と同じように、裏では巨額の賄賂や交付金のばら撒きと、権力による種々の圧力・締め付けが行われ、一部地域の住民が屈服させられたという構図ではないでしょうか。
いずれにしても、軍事施設建設の対価=代償として、喜界島に巨大な「地下ダム」が建設されることになりました。通信施設誘致確定の翌年、1992年に調査が開始され、1994年に着工。2000年から段階的に運用が開始され始めました。
地面に浸み込んだ雨水を貯める地下ダムの高さは35m、長さは3Km弱。貯水量は173万m3で、東京ドーム1.5杯分に相当します。その水を、風力発電の電力等でくみ上げ、延べ長さ40Kmに及ぶパイプラインで島のあちこちに運び、スプリンクラーで畑にまくというわけです。実に壮大な企画と施設です。
地下ダムですから、サトウキビ畑にずらりと並ぶスプリンクラーと、水をくみ上げるための風車(なんと故障したまま)以外に、地上に建造物は見当たりません。主役は地下に横たわっています。
地下ダムに沿って掘られている地下トンネルに入ってみました。地表から20~30m螺旋階段で下った先に、巨大なトンネルがつながっていました。
オオゴマダラ蝶の生息地を破壊しないために、地表から直接工事をせず、一旦巨大トンネルを掘って、そこからダム建設を始めたとのこと。これも「とってつけたような言い訳、まやかし」ですね。オオゴマダラ蝶に配慮すれば、自然環境全体に配慮したような論理のすり替えが行われています。
海に流れていた地下水が、滞留あるいは循環することで、PHが変化したり、農薬が濃縮されたりする危険性が十分に考えられます。また、あまり知られていませんが、地下には地表の全ての生物を合わせた以上の総重量の生物が生息しています。(大半は微生物ですが)地下が水没することによって、地下の生態系が壊され、未知の病原体が発生するなど、地上の生態系にも影響が及ぶ可能性も否定できません。
地下ダムによる環境破壊(例えば濃縮された農薬)のために、回りまわってオオゴマダラ蝶も死滅してしまうかも知れません。
地下ダムができて、サトウキビの収穫が増えたかといえば、決してそうでもなく、1986年に12万t、1992年に10万tを記録してからは、7~8万t/年の収穫高で推移し、地下ダム完成後も10万tを超えたことは一度もありません。どころか、他の要因もあるでしょうが、2003年には6万t台の最も低い収穫量を記録しています。
建設費用はざっと300億円。
喜界島のサトウキビの毎年の売上げ高が20億円弱、農産物全体でも30億円弱で、これは利益額ではないので、ROI(投資に対する利益)で言えば、おそらく投資額は永遠に回収できません。企業では絶対に認可されない馬鹿げた投資になります。
農家の方々の労働が楽になったことは否定しません。
喜界島で唯一の製糖会社「生和糖業」の前で、TPP反対の横断幕を見ました。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に参加すれば、数倍のコスト差がある日本のサトウキビ農業など一瞬にして吹っ飛んでしまうこと必至です。TPPに参加しようという政府が、喜界島のサトウキビ農家を助けるために地下ダムを作りましたと喧伝しても何の説得力もありません。
この地下ダムは、もともと軍事施設を建設するための大義名分の存在以外の何者でもないのです。

夜、島のライブハウス「SABANI」に行きました。
普段はフォーク、ポップス系のライブをやっているようですが、この日は喜界島出身で現在は鹿児島在住の若手唄者、安田博樹さんがたまたま来店していたので、お願いして島唄を歌ってもらうことにしました。
博樹さんは、喜界島の島唄の大御所である安田宝英さんのお孫さんです。現在24歳。結婚して奥さんの故郷の鹿児島川内市で働いています。礼服を着ているので、事情を尋ねると、
「母校の坂嶺小学校の閉校式に出席してきた帰り。」とのこと。
島の人口が激減しているため、この3月中に、島にある9つの小学校が2つに減り、3つある中学校が1つになってしまうと寂しそうに博樹さんは語りました。
島の人口は現在8000人弱。地下ダムができてからのこの10年強で、1000人以上減っています。
小生はどこかで見た地下ダム事業のキャッチフレーズを思い出しました。
「地下ダムで築こう豊かな郷土」
「水は喜界島の未来を乗せて」
「島民の未来を乗せて大地は潤う」
皮肉なことです。
豊かな郷土と未来を築くはずの一大事業の後にも、人口はどんどん減り、未来を担うはずの子供達の学びの場が閉鎖されて行ってます。
安田博樹さんとて、島では職がないために、やむなく唄を捨てて本土に渡っているのです。
「最近全然練習してないからなあ。」と言いながら、店の三味線の手入れを入念に行い、おもむろに朝花節、むちゃかな節、ワイド節を歌ってくれました。
ふくよかな低音、伸びやかな高音、絶妙な節回し、音の粒の揃った正確な三味線さばき。若いのによく鍛錬された唄と演奏です。
続いて、博樹さんのおじいさんが作詞作曲した島の賛歌「喜界や良い島」を歌い始めました。
軽妙な曲調の中に、「情けの島」「恋の島」「唄の島」「祭りの島」「夢と希望の島」という歌詞が連なって行きます。
確かに喜界島は魅力あふれる島ですが、「情け」や「恋」や「唄」や「祭り」や「夢と希望」があるのは、何もここに限ったことではありません。誰の故郷にもあります。地球上どこにでもあります。
素晴らしい歌を聴きながら、昼間トンビ岬近くで見たモニュメントの文章を思い出しました。「地球人宣言の町」と題がつけられたその碑には、このように書かれていました。
「蝶の飛び交う地球人宣言の町、喜界町は東経130度00分の地点にあって、
太平洋と東シナ海の境界線上にあります。
国境という枠を外すと地球が丸く見えてくる。
66億余人の地球人が、この地球とそこにある自然を愛している。
誰もがみんな対立より調和を望んでいるのです。
そんな地球の素晴らしさを実感し、地球人の夢をひとつに結びたい。
我々喜界町民は、地球人の恒久平和と繁栄の確立にあらゆる努力を尽くすことを誓い、
地球人宣言する。
1988年6月』
簡単明瞭ながら、崇高な志が胸を打つ文章です。
「66億余人の地球人が、この地球とそこにある自然を愛している。誰もがみんな対立より調和を望んでいるのです。」の下りがとりわけ感動的です。
この精神を持ってすれば、誰もが「象のオリ」の軍事施設など不要だと思えるはずです。また、自然に対してあまりに不自然な地下ダムにも疑問を呈するはずです。
2つの施設に費やされたお金は600億円。
この金額は年間5億円強の喜界島の税収の100年分以上に相当します。
600億円ものお金があれば、子供達に夢と希望が与えられるもっと有効な島の活性化策が立てられるだろうにと思いながら、小生は安田博樹さんの「喜界や良い島」に聴き入っていたのでした。
【記事と直接関係のない喜界島の写真】




